人間にとって自然とはなんだろう、などと漠然としたことを、ときどき考えることがある。
自然がなくては人も生きられない。自然の中で生きるのが心身の健康にはいちばんよい。
こんなことが常套句のように繰り返される。もちろん、これらを否定する気はない。
とはいえ、「自然ってスバラシイですよね」だけで片づけては、人と自然とのかかわりの中で大切な部分を見落とすのではないか、という気もするのだ。
こんなことを考えるようになったことには、20代の後半から30代にかけて、精神科医として北海道の病院に勤務していた体験が大きく関係している。
当時、私が勤務していた病院は、誰が見てもうらやむような環境にあった。海へも山へも車で15分ほど。それでいて大都市・札幌へも近く、千歳空港へは電車で1時間。たとえば冬など午後5時すぎまで病院で診療したあと、ある医者はナイタースキーを楽しむため市内にあるスキー場へ、ある医者は東京でジャズのライブを見るため千歳へ、ということなどもよくあった。
スポーツが苦手な私でさえ、こんな環境にいれば自然に山スキーやシーカヤック、キャンプ、キノコ狩りなどを、同僚に誘われるがままに年に何回か楽しまずにはいられない。とくに山スキーでは、リフトでゲレンデのてっぺんまで上がり、そこから山を縦走して冬期間は道路が閉鎖された先にある温泉に出かける、などという離れ技にチャレンジしたこともあった。まわりを数メートルの雪の壁におおわれた露天風呂に疲れたからだを浸すのは、格別の気分であった。しかも、こんなレジャーを楽しむには半日もあれば十分だ。
こんな話を東京や大阪の精神科医仲間にすると、みんな「信じられない」「うらやましい」とため息をつく。「私なんて、ちょっとまともなゲレンデでスキーしようと思ったら、何日間も病院を休まなきゃならないのに。それがたった半日で、露天風呂つき山スキーですって?うーん、この差はいったい何なの…。」
しかし、一瞬、羨望の目をした後で、医者仲間は必ずこんな強がりめいたことを言うのだ。
「でも、そんな恵まれすぎた環境に住んでたら、ストレスなんて無縁だろうし、精神疾患になる人もほとんどいないでしょう。いろいろな症例を勉強する、という点においては、自然いっぱいの地方よりやっぱり都会の病院よね。」
そういうとき私は、「ええ、まあ」とあいまいな返事をしてその場を切り抜けることにしていた。しかし、実際はまったく違う。自然いっぱいの環境の中でも、人は統合失調症、うつ病から不登校、拒食症まで、さまざまな心の病になるのだ。その北国の病院も、毎日、多種多彩な患者さんたちで“大盛況”だった。
それにしても、と私はよく考えた。たしかに、あの医者仲間が言うことにも一理ある。ほら、この窓から見える風景だって山あり海あり、まるで映画のワンシーンみたいだ。こんな恵まれた環境に住んでいて、どうして「過去の心の傷が忘れられない」などと言ってひきこもる人がいるのだろう…?
そして、患者さんたちと深く話す中で、本当に悩み傷ついている人にとっては、五感が感じる自然など、“心の風景”のほんの一部にしかすぎないのではないか、と考えるようになっていった。彼らにとっては、苦しみや憎しみの感情が心を占める割合があまりに多いので、目が感じる雪景色や皮膚が感じるそよ風などは“ささいなもの”でしかなくなっている。中には、「今日はひどい吹雪ですね」と言っても「はあ、そうでしたっけ?」とまるで自然には関心が行ってない、という人もいた。
もちろん、それは心が病的な状態になっていることの証拠でもある。しかし、そうやって心の中の主観の世界がまわりにある客観の世界を圧倒してしまう場合もある、ということを知ってからは、安易に「豊かな自然があれば人の心は癒される」などとは発言できなくなってしまった。
だから自然など必要ない、と言いたいわけではない。ただ、「自然さえあれば」という決めつけは、人間に対する理解を誤らせる危険性があるということだ。
都会にも心を病んだ人がたくさんいる。それと同時に、自然に恵まれた地域にも、ストレスに苦しむ人は大勢いるのだ。私たちが自然いっぱいの暮らしを楽しみ、そこでストレスから解放されるには、何が必要で何が不要なのか。「都会の人間は病んでいて、田舎の人間は健康」といった先入観を捨てて、もう一度、考えてみたいと思う。 |