「自然を克服して理想郷に至る」

倉光弘己(芦屋大学教授・産業教育)

 諸橋轍次著の大漢和辞典(全13巻)の「文化」の項には、英語のculture、ドイツ語のkulturの訳語としてこんな風に書いている。<自然を鈍化し、理想を実現せんとする人生の過程。即ち、人間が自然を征服支配して本来具有する究極の理想を実現完成せんとする過程の総称。かかる過程の産物は学問・芸術・道徳・宗教・法律・経済などである。>

 これは明治に日本が英米やドイツから輸入した「文化観」そのものである。人類は進歩して「野蛮な自然」を征服し、理想郷に到達するという「進歩史観」に裏付けられていた。だからマンガの未来都市には、木は1本もなく人工物ばかりが描かれていた。

 20世紀を科学時代と予想した報知新聞は、1901年(明治34年)正月特集で、台風に大砲を撃ち込んで消す技術が出来るという予想を書いた。また現在の新幹線らしき東京-大阪間を2時間半で走る汽車を予言したり、バイオを予想したわけでもあるまいが、樽大の空豆が出来ると無邪気に予想した。

 だが、教育が行き届き、幼稚園がなくなる(不要になる)とか、獣の言葉が分かるようになる結果、下男下女は犬猫の仕事になるなどとのんきな間違いも書いた。だが、まさか文化の進展が人類を進歩させるどころか、その生存を危うくする事態に人類を追い込むとは全く考えていなかった。

 「モモ」を書いた作家、ミヒャエル・エンデは、別の作品で「自分と家族が食べられるだけの漁しかしなかった漁夫が、貨幣制度が出来たとたんに借金をして大型船を買い込み、借金を返済するために魚を取り尽くす話」を書いている。

 自然を畏怖しながら、生かされている自己を実感し感謝する「謙虚なヒト」の姿は、今は消えようとしている。山上で日の出を見て感動した経験、自然暗騒音(風や浪の音、鳥や獣の声など)を聞いて怯えた経験、暗闇で焚き火の炎を見ながら眠った経験、こうした経験こそが、子供に与えられなければならない最大の教育ではなかろうか。

 「ヒトはどこから来てどこに行くのか」と言う問いを発することなく、他人との競争に勝つための方法論を授けることが教育だとする誤りは、自然から切り放された「滅び行く人類」の姿ではないか。「自然に優しい」などというマヤカシの言葉を使うのも、こういう人たちの特徴である。

 ヒトは自然に対してもっと、もっと謙虚でなければなるまい。


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