間瀬啓允(ませひろまさ) (慶應義塾大学名誉教授・現、東北公益文科大学教授)
「みどりの日」に京都を訪ねた。 33年ぶりのご開帳というので、清水寺に詣で、ご本尊を拝した。 遠い昔の先祖の思いがしのばれて、しばし心のなごむのを覚えた。
「清水(きよみず)の舞台」から眼下を眺めた。 新緑が光に映えてまぶしかった。 木々は水を吸い上げて、確実に呼吸していた。 同じ生命(いのち)を持つものとして、共生(ともいき)を感じた。
思うに、「緑」とは不思議な色である。 好きでも嫌いでもない色、 それでいて、なくてはならない色なのである。 それは心のなごむ色、目にしみる色、遠い昔の先祖がしのばれる色…
旅先で、その日に読んだ新聞(朝日の社説)にこうあった。 「緑を見ると、遠い昔、先祖がまだ森に暮らしていたころの記憶がよみがえる、という説まであるそうだ。そう聞くと、この色の持ち味が何となく奥深いものに思えてくる。その緑がつくり出す「緑陰」での昼寝を、人間の最高の快楽のひとつにあげる人がいる。何も考えず、何もせず、ゆったりと 流れる時間にただ身を任せる。」
「忙中閑あり」とすれば、それは緑陰での昼寝が第一等であろう。 旅先で、昼寝とまでは いかなかったが、清水(きよみず)の緑陰を心ゆくまて楽しんだ。
光のなかに映える新緑、それは やがて緑を深め、移りゆく季節を告げるであろう。 だが、緑の木々は、そうして力強く生きて鼓動している。 そうして私も、木々のように逞しく生きて鼓動している。
わき上がってくるこの共鳴感、それは 何とも言えぬ大きなもの、生命以上のものに、共に 生かされ生きているという、あの「共生(ともいき)感」ではなかったかと、 いま、自分に問いただしている。