「NPOとPO、NGOとGOの境界」

森住 明弘(大阪大学基礎工学部 生体機械講座 助手)

 GOやPOなど力の強い組織の活動は、献金と賄賂の区別を厳密に行うなど、基本的な言葉の定義を厳密にしてもらわないと、恣意的になり市民が困る。しかし、言葉は本来多義的であるから、例えば廃棄物は客観的に定義できない。にもかかわらず、厳密に定義すると杓子定規になり、それからはずれるモノは放置される。このように、仕事や生活で使う基本用語は厳密に定義できない言葉が多い。そのような用語の定義範囲はGOやPOに任すことなく、市民自身が担う。

 GOの活動は平等を大原則にする。しかし、時にはそれが“しがらみ”になる。阪神大震災で、ある150人の被災者団体に“おにぎり”が100個届いた。GOは50個届くのを待つ。しかし、おにぎりは腐る・・・。NGOは“許して”と“差別”しながら自分達の責任で100個を配る。仕事や生活は、平等と安全など、相対立する複数の真理で実践されている。どの真理を適用するかは、その場次第である。それを担えるのはGOやPOではなく、互いに顔見知りなNPO、NGOである。

 成長を至上命題とするPOには撤退はあり得ない。しかし、循環とは善と悪など相対立する真理も“巡る”ということを意味する。よって成長を志向しても衰退せざるを得ない。神戸のNPOが被害者を「保護」する活動を続けていたら喜ばれなくなり、「自立」出来る仕事が欲しいといわれた。NPOは“撤退のプログラム”が必要と痛感したという。

 NPO・NGOの本家欧米と日本ではPOとNPOの線引きが違う!。日本では扱うお金の多少で線を引く。公益を口にしても“ホンネが金”という人が多かったからだ。本家では、POを名乗ると、[1]出資者に配当が還らない。[2]経営者は報酬ではなく給料しか受け取らない。KSDの古関のような“ホンネが金”の人は参加のメリットがないような仕組みにしてある。


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