桑(クワ)の実が熟れる頃

蚕(カイコ)が育つ季節を迎えました。卵から生まれたては毛蚕(ケゴ)と呼ばれていますが、真っ黒な姿で一見アリと見間違いますので蟻蚕とも言われているようです。蚕は桑の葉だけ食べて成長し、やがて大人の人指し指ぐらいの大きさに成長し、新幹線『のぞみ』そっくりの姿に変えると口からさかんに糸を吐き出し繭(まゆ)を作り始めます。

蚕は、蛹(さなぎ)となった自らの体を守るために必死で糸を出し、繭をつくるのですが何時のころからか人間は、この繭から糸を取り出す方法を見つけ蚕を養殖し、繭を作らせるようにしました。そして一本の細い糸を何本も重ねて紡ぎ、丈夫な糸とする技術を改良に改良を加え完成しました。

この丈夫な糸は、絹糸とも生糸ともよばれ、この糸によって折られた織物は艶があり、丈夫で着心地や保温性に優れ、色もつけやすく気品のある絹織物として、古代から中国の代表的な物産でした。

時が下がり、ヨ−ロッパ特に地中海地方が文化の中心になるギリシャ・ロ−マの時代になると、豊かな人々の間では、先を争ってこの絹織物を求める傾向が強くなりました。しかし、当時の地中海地方には、この蚕を育てる技術も、食葉となる桑も成育しなかったので、野心家はこぞって中国からはるばる、生糸を運び大儲けを企んだようです。

中国から命懸けで絹織物を運ぶために開かれた道路が、シルクロ−ド(絹の道)であり、その長い年月を経た副産物として、洋の東西の文化の交流に果たした役割は、誰でもが認めることだろうと思います。蚕は、古代中国の宝であり、その蚕の餌となる『桑』は大切な樹木として崇められると同時に、中国の人々にとって富をもたらしてくれる宝の木であり、大切に栽培された関わりの深い樹木であったようです。

わが国にも、朝鮮半島を経て、蚕とともに桑が紹介されたようで『古事記』や『日本書紀』にも蚕や桑の記事があるところをみると、奈良時代のかなり以前から輸入されていたようです。しかし、『天蚕』の存在や、桑そのものが野生化し、日本のどこにでも見られる事実から、蚕が輸入されるずっと以前から、わが国独自の『蚕文化』を持っていたのではないでしょうか。

この桑の実が大きくなり、黒く熟してくるのがこの時季です。学校などで植えられている桑は、蚕の飼料として改良された種らしくあまり実が熟す姿がみられませんが、野生化した樹には、たわわに実らせます。

学校からの帰りに、道草をしながら、口のまわりを赤黒く染めて、この黒く熟した桑の実をほほばった経験をもつ人は私と同年輩以上の人々には少なくないはずだと思います。

この実が熟す頃ともなると、間もなく本格的な梅雨に入ります。(杉)