平田裕之 人をつなぐ種  NGO職員 平田 裕之


  近年、農業が大きな注目を集めています。特に今年09年に入ってからは、ブームといっていいほど、雑誌やテレビなどでたびたび取り上げられています。
  私は、2008年6月に「畑がついてるエコアパートをつくろう」(自然食通信社)という本を出しましたが、しばらくたってから「都会の農」をテーマに取材依頼をいただくようになりました。本は環境に配慮した家づくりをテーマにしていたので、なぜだろうと思っていると、どうやら理由は08年秋頃からの経済危機に端を発しているようです。
「経済危機→ギスギスした社会→いやし→土いじり・農→畑がほしい→エコアパート」
と、マスコミの連想ゲームは、どうやらこんな流れになっているようです。

  環境に配慮した省エネライフ、地域づくりに視点を置いていた活動が、よもや経済危機によって農業で注目されるようになるとは、社会の流れとは不思議なものです。まあしかし、いずれこの流れも変わっていくのでしょう。流行りはいずれすたるのが世の常です。
  ただ、こうした時の流れによって変わっていくものと、そうでないものがあります。私が期待するのは、今回の農業ブームの根底にある人と地域社会の関わり方についてです。特に都市部では、農が人のつながりを紡ぎなおす「ツール」になるのではないかと期待しているのです。

  私は2002年秋から08年春まで、地元の都市開発によってできた空き地を利用してコミュニティガーデンの運営に関わっていました。
  コミュニティガーデンとは、ヨーロッパやアメリカをはじめ、世界の都市部で展開されている「地域の畑」です。市民農園との区別について、正確な定義があるわけではありませんが、私は畑づくりの主な目的が「収穫」であるか、「地域づくり」であるかが、その違いだと思っています。目的が収穫であれば、利用者との関係だけでいいですが、地域づくりとなると、近所の人と採れた野菜を食べる収穫祭や、虫の観察や、取れたハーブで講座を開いたりと、ご近所が仲良くなる様々な「仕掛け」が必要になります。
  世界のコミュニティガーデンの中には、貧困対策や犯罪者の社会復帰や地域紛争からの脱却を目指したものもあります。その目的はその土地の事情によりますが、土を耕し、種をまき、収穫し、食べ、収穫の喜びを分かち合うことについては、世界各国同じなようです。

  私たちの町は、当時都市開発によって、それまで慣れ親しんできたご近所の方が、一人、また一人と町を離れ、そこにフェンスで囲まれた空き地が生まれ、ゴミが捨てられ、自分たちの居場所を見つけることが難しくなっているような状況でした。
  町が開発されて便利になるかもしれない、電車は来るかもしれない、道もきれいになるかもしれない、けれども自分の居場所を探せない。そんなまちづくりでいいのかと思いつつ、どうすることもできず、モヤモヤとしつつ、町を眺めていました。

  そんなとき、ふと「この空き地をなんとかできないだろうか?」と私は考えました。立ち入り禁止の看板を立てていた役所を訪ねて何度も何度も交渉し、当時話題になっていたヒートアイランド対策の地域実験として、空き地を一時的に活用する約束を取り付けました。
  許可が下りたものの、次は雑草やごみとの戦いです。仲間はなく、金もなく、今にして思えば、なんであんな無謀なことをしたのだろうと思いましたが、いざ数人の仲間とはじめてみると、近所のひとが、次々にスコップを持って参加するではありませんか!聞けば、みんなこの空き地を何とかしたいと思っていたのです。昔から知っている人、顔くらいは覚えている人、初めて会う人など、色々な人が集まってきました。

  雑草だらけの空き地は、近所の方たちがコツコツと草をむしり、石を取り、ゴミを拾っていきました。誰かがみんなのためにお茶を出し、誰かがお茶菓子を出し、誰かがイスをつくり、テーブルを作り、あはは・おほほと笑っているうちに、みんなの居場所となっていきました。畑を作ると、畝の作り方を教えてくれる人がいて、種を分けてくれる人がいて、農具を貸してくれる人がいました。池を作るとトンボがくるようになり、それを捕まえに子供たちがくるようになり、それに連れられて若いお父さん、お母さんがくるようになりました。人が来るとまたお茶を出す人がいて、お菓子を出す人がいて、初めて来た人も毎日来る人も、あはは・おほほと笑いながら、暑いだの、寒いだの、野菜の出来がいいだの、悪いだの話していました。そんな時間をコツコツと積み重ねているうちに、野菜が成長するように、樹木が根を張るように、人の輪がジワリジワリと広がり、やがて空き地は年間で1万人も訪れるような地域のたまり場=コミュニティガーデンになっていきました。
  当初は、ヒートアイランド対策として緑を増やす活動だったはずが、そこに地域の人が集まってたまり場ができ、そこにまた色々な人が集まって、笑いが起こり、祭りが起こり、(小さな)事件が起こりと、野菜だけでなく、野菜も人も育っていきました。雑草だらけだった当初には想像もつかなかったことです。

  このコミュニティガーデンは、都市開発の進展に伴い、08年春に終了してしまい、今は存在しません。制度の問題などもあり、いくつかの例外を除き、コミュニティガーデンを他に広げていくことはできませんでした。昨今の農業ブームをみると、今もあの場所が残っていれば、コミュニティガーデンのブームにつなげることもできたのにと、少し残念にも思います。
  一方で、今回のブームに便乗するまでもなく、いずれ近いうちに、こういった取り組みは広がるだろうと期待しているところもあります。なぜなら、そこには必然性があるからです。

  当たり前のことですが、私たちは、便利さのみで幸福感を感じるのではなく、いつまでも若く健康でいるわけでもなく、経済だけで日々の暮らしを営んでいるわけではありません。どんなに経済のグローバル化がすすんでも、技術が発展しても、人との関わりの中で支えられ、喜びを分かち合い、我慢することを学び、感謝し、成長していくのです。現在の社会には、そういうことができる時間的・空間的な場が圧倒的に不足しているのです。
  環境問題や少子高齢化問題や雇用問題など、社会の多様な問題を解決していくのは、単に経済や制度だけではない、場が持つ力、人と人が支え合う力なのだということを、私はしみじみと実感してきました。それは時代を超え、国境を超え、普遍的な人の有り様なのだと思うのです。ですから、コミュニティガーデンそのものではなくても、似たような取り組みはおそらく近い将来、社会の揺り戻しとともに実現するのだと思います。

  そういった普遍的なものが、社会の流れやブームとどんなタイミングでどうシンクロし、発展していくのか、はたしてコミュニティガーデンという未来のブームは来るのか、それはどんな形なのかを楽しみにしている自分がいます。それは私にとってコミュニティガーデンの活動そのものが、次の時代への「種まき」だったからでしょう。

(2009年3月寄稿)

■平田 裕之さんのブログ「畑がついてるエコアパートをつくろう」はこちらから
http://blog.canpan.info/eco-apa/