「富士山」逸話あれこれ

24.富士山、冨士神社―筑波山周辺に『3つの富士山が!』の謎(茨城県)!?                                               

 

茨城県に3つも富士山があるとは知らなかった。それも関東平野を代表する名峰・筑波山の近くになぜか集中。世間に○○富士の別称を持つ山は多いが、その類ではなく、ズバリ「富士山」なのである。それらをめぐるうち、さらに富士関連の地名に続々と出会うことに・・・・・・・・

 

 

24-1.筑波山麓は「富士」だらけ①―八郷町           

 富士山がある場所は筑波山の東にある八郷町(現・石岡市)、その北東の笠間市、友部町(現・笠間市)である。標高はそれぞれ152メートル、183メートル、128メートルと低く、いずれも「ふじやま」と読む。なぜ複数の、しかも小さな富士山なのだろう。おまけに、筑波山周辺の市町村の地名を調べてみたら、小字の地名に「富士」の着くものがやたらに多いことも判明した。これは行かねばなるまい。
 まずは、東京に最も近い八郷町の富士山へ行ってみた。町の中心・柿岡へ行くバスに石岡から乗って約20分、この路線では下林バス停が「登山口」となる。
 バスを降りて西へ農道をたどると、正面に筑波山が迎えてくれるが、その左手前になだらかに楯を伏せたようなのが富士山だ。「丘」といったほうが適切かもしれない。筑波と「富士」を正面に見ながら田んぼのまんなかの道をまっすぐ歩き、恋瀬川という情緒あふれる名の川を渡ると突き当たりが金指の集落だ。
 ここから西へ細道を入り、小さな古いお堂を横目に登っていくと畑に出た。地形図に破線で描かれた細道をたどれば山頂まで楽勝かと思いきや、道は途中でなくなっていた。いつの間にか方角もそれていた。
 そんな場合は引き返すのが登山の基本だろうが、この程度の「丘陵」ならなんとかなるさ、とコンパスを頼りに無理やりヤブ漕ぎし、何とか目指す尾根道に出ることができた。
 富士山はピークが2つあり、東峰は三角点のある135・8メートル、西峰は神社のある152メートルが頂上となっている。山の成り立ちは素人には想像がつかないがここ一帯の「柿岡盆地」には、このように取り残されたような山がいくつもある。長年の侵食がもたらした「残丘(ざんきゅう)」だろうか。明治33年(1900年)発行の吉田東吾『大日本地名辞書』には「古生層盆地に迸発したる休火山に似たり」とあるから、ひょっとして古い火山なのかもしれなしが。
 ふたたび若干のヤブ漕ぎを経て到達した山頂の祠はごく小さなもので、それでも「横室神社」と簡易な扁額に墨書されていた。昭和参拾壱年五月吉日とあるので、少なくともその年代にはまだ参る人がいたのだろうが、世の流れか、今では羽目板は外れ、風雨が容赦なく入り込む状態となっている。
 西麓の須釜へはスンナリと降りられ、そこから北上、柿岡の町へ行くことにした。その前にご近所の気象庁地磁気観測所を通っていくことにしよう。この観測所は大正2年(1913年)から90年近くも地磁気を観測している「老舗」で、その成果は火山噴火や地震予知の研究に役立っている。
 現在では「地球を取り巻く赤道環電流の強さを表す指数を決定するための、世界で4ヵ所の地磁気観測所のひとつ」(同観測所HP)である。その精密な観測に影響しないよう、常磐線を電化する際に取手以北を交流電化した(直流電化は、沿線に変電所が多数必要なのだ)。ちなみに、平成17年に開通した「つくばエクスプレス」も守谷駅以北は交流電化である。
 富士山の麓から地磁気観測所を通って柿岡へ抜けるルートは小径ながら近道で、畠と森を抜ければすぐ観測所、のはずだったが、実は迷ってしまった。また道がわからなくなってしまったのだ。
 体勢を立て直して気を鎮めると、確信を持って細道をたどり始めたら、今度はやけに勾配が急になった。地形図で確かめると、いつの間にか富士山を北麓から登り始めているではないか。ゾッと背筋が寒くなるような感覚を味わったが、結局は来た道を引き返し、柿岡の町へたどり着くことができた。もしや観測所のまわりには人を惑わす妙な地磁気が渦巻いているのだろうか、などと自分の読図の失敗を棚に上げつつも、疑問符がなかなか抜けなかった。
 柿岡では八郷町役場へ行ってみた。例のやたらに多い「富士」のつく小字の実際の位置を調べるためだ。ところが役場には小字を網羅した地図はない、という。なぜなら八郷町の小字は非常に細かく、山林でなくてもわずか一筆(土地所有上の最小区画)で1つの字、というのも珍しくないらしい。農村部の小字は少なくとも数ヘクタール程度はある、という私の固定観念はひっくり返された。
 それでも小字のリストを見せていただくと、大字別にズラリと並んだ小地名は壮観で、ざっと数えても八郷町全体では3500ほどある。人口で割れば住民8~9人で1つの小字を抱えている計算だ。字は耕地だけの場合も多いから、京都旧市街の小さな町とは単純に比べられないが、地名の宝庫であることは間違いない。
 この膨大な小字リストのなかから富士関係をピックアップしてみると、まずは大字柿岡に冨士谷と根冨士、須釜に冨士山、ほかにも冨士上、冨士山、冨士の越、富士峯など(富と冨の字が混在)、合計10ヵ所もの小字が確認できたのは収穫だった。

 

 

 

24-2. 筑波山麓は「富士」だらけ②―友部町          

 翌日は友部の富士山へ行った。笠間市本戸の富士山は福原駅の近くなので車窓から眺めただけだったが、実は数日前に別の用事で近くへ来た際に麓まで行ってきた。地元の人が、ほとんど誰も行かないから道はあるかねえ、と話していたので登らなかったが、地元のおばあちゃんが「オフジヤマ」と呼んだのが妙に印象に残っている。あとで考えると、これが謎の解明のカギだったかもしれない。
 友部町の富士へはJR水戸線の宍戸駅で降りる。宍戸は今や駅名のみの存在だが、約半世紀前までは宍戸町という自治体であり、さらに江戸期までは宍戸藩の「城下町」だった。
 目指す富士山は笠間市の端の友部町に入ったあたりにある。涸沼川に沿って少し遡ると下加賀田の集落だが、そこから川沿いの細道をたどった。しかし結局はまた道が消えていて、道半ばで引き返した。
 この富士山について、後日国土地理院の「点の記」(※)を調べたら、三角点は三等で点名は「向峰」、所在地は「大字下加賀田字石倉山551番地」となっていた。また、「俗称・富士山」の記述もある。ここにはジープで頂上までたどり着けることが書かれていて、それなら別のルートを考えればよかったか、などと思ったが後の祭りだ。
 麓の国道まで戻ったときに自動車整備工場のご主人らしき作業着の人に聞いた。
 「以前は、フジヅルの藤という字で、藤山と書いたらしいですよ。だいぶ以前に年寄りに聞いた話のよればね。読み方はフジサンではなくフジヤマ」
 「点の記」に記されている向峰というのがひょっとして正式名称なのだろうか。いや、山名には「正式」などないはずだからいろいろな名前をもつ山なのかもしれない。それにしても山頂の住所の字が「石倉山」となっているし、おじさん説に従えば藤山だし・・・・・。はっきりしない実際の山容そのままに、捕らえどころのない富士山であった。
 それはともかく、前夜に地図を凝視していてたまたま発見した南隣の岩間町(現・笠間市)にある「ふじやま運動公園」へ行ってみることにした。富士関連小字の大量発生地帯ゆえに、何らかの手がかりがつかめるのではないか、との淡い期待からである。岩間駅から東へ向かうバスの時刻はインターネットの茨城県バス路線サイトで調べ済みだったが、ちょうどいいバスがなかったのでタクシーで数キロ、上押辺へ向かった。
 曲松というバス停近くで車を降りた。県道を外れ、ホルスタインが草を食む牛舎を横目に台地へ登るあたりに野球のバックネットつきのグラウンドがあった。これが「ふじさん運動公園」であるが、一歩足を踏み入れて思わずおおと叫んでしまった。冨士浅間神社が鎮座しているではないか。
 富士講である。富士講とは江戸時代に爆発的に流行した庶民の富士信仰にかかわるもので、庶民は少しずつ貯金して何年かに一度、富士山を目指したのである。「信仰」を看板に物見遊山できる魅力もあって、関東を中心に富士講はアッという間に広まったのだが、その拠点が木花開耶姫命を祀る「浅間神社」だ。境内には「富士塚」という小さな築山が盛り上げられ、女性や老人など富士登山がかなわぬ人々が、ここへ登ることによって富士への代参とした。
 その富士塚らしき形のいい小山が、運動公園の冨士浅間神社にはあった。近所の人に聞くと、そのとおりの築山だという。周辺にはそんな塚がたくさんある、という話を聞いて、筑波周辺に分布する富士関係の小字の多さも納得できた。事前の調べでは、大字押辺には位置は不明ながらも富士、富士上、富士下の3つの小字があることになっていたから、まず、富士塚に相違ないだろう。
※ 

 

 

24-3.冨士神社―江戸時代の山岳信仰・富士講にちなむ地名群    

 教えてもらった別の小さな神社へ行って庚申塔などを覗いていると、いつの間にか地元の方とおぼしき男性が近づいてきた。「実は私もこういうのがすきで・・・・」という。富士山にちなむ地名を探していて、近くの「富士池」へ行くつもり、と白状したところ、そんならクルマに乗れときた。彼は工務店の社長さんだ。 
 「いやあ、この辺は歴史的にとても面白い地域でね。昔の岩間町には寺が今よりたくさんあった。常陸の国府も近いし、私も古い寺や神社を訪ねるのが好きで、坂東三十三ヵ所、それに秩父三十三ヵ所も回りましたよ。いずれは四国八十八ヵ所をと思っているけど、カネとヒマがないとね。
 クルマだと富士池はすぐだった。残念ながら池の名を記した看板もなく、ヘラ鮒を狙う平日釣り師がたたずむのみ。もう1ヵ所地図で見つけた「冨士神社」の近く、美野里町(現・小美玉市)の竹原下郷まで乗せてくれるというお言葉にも、つい甘えてしまった。
 「このあたりで旧家の解体なんかすると、蔵からすごいものがいっぱい出てくる。戦前の新聞だとか雑誌、これが嬉しいんですよ。ください、というわけにもいかないけれど。嫁入りと葬式のときにしか開けない、立派な玄関のある旧家があったり、でも蔵のなかを見せてください、と頼むわけにもいかなくて・・・・・」
 地元の歴史に興味を持った人たちが地方の要所要所にちゃんと存在する。それが日本の底力なのだなあ、と話を聞きながら思った。茨城を誇りに思っているのがわかり、私の祖父がすぐ近くの出身であることもあって、なんだか嬉しくなった。
 「このへんは、温かい地方の作物も寒いところの作物も穫れる。ミカンもリンゴもね(八郷町がミカン栽培の北限地)。コメは新潟や庄内がいいというけれど、やっぱり茨城のコシヒカリがいちばんでしょう」
 そういえば、我が家でヒイキにしている生協の納豆も実は八郷町産で、自然な味がずっと気に入っている。
 竹原下郷で降ろしてもらった。ここから花野井の冨士神社は距離もわずかだ。細長く水田になった小さな谷へ下り、台地へ上がってまた次の谷を下りると、突き当たりの南斜面が冨士神社だった。
 石碑には思ったとおり「木花開耶姫命」が祀られている旨彫られていた。やはり富士信仰にちなむ神社だった。江戸時代の最盛期には関八州で「八百八講」に及んだという富士講のことだから、常陸国のこの村に冨士神社があって一向におかしくはない。たまには小字の区画が小さい茨城県にあっては富士の名のつく小字が大量に存在しやすかった、というのは納得できる話である。
 さて、後日電話で八郷町教育委員会に富士山について問い合わせてみたところ、町誌編纂にたずさわっておられる関肇さんに、いろいろなお話をうかがうことができた。
 まず膨大な小字の数について、この地方は大地主が少なかったために小規模な区画が多く、それが小字の多さにつながっているのではないか、という。実は、町内の小字は明治以降でも今をはるかに上回る5000ほどが存続していたという。
 「明治になって消えたのはわずか200~300で、公式にはその後の圃場整備で消えて、今は3500ほどになっています。これらの小字を記録する仕事をもう15年ほども続けていますが、完成はまだ先の話。最も小さな小字は1坪というものさえあるんですよ。」 
 八郷の富士山も、もとは鼓ヶ峯という名前だったそうだ。柿岡のほうから見ると鼓の形に見えるからだという。それが山頂に富士の神様、木花開耶姫命を祀った浅間神社が鎮座してから、いつしか人々から富士山と呼ばれるようになり、それが明治時代に陸地測量部(国土地理院の前身)の地形図に掲載されて「正式名称」的になったらしい。なお、山頂で見た横室神社は、もとは麓の須釜にあったのを合祀したという。神社のあった狭い一角が実は「富士山」という小字で、柿岡の小字「富士谷」も、やはり北麓の谷につけられているそうだ。やっと雲が晴れた気分である。
 富士関連の小字名と浅間神社の関係については、石岡の市立図書館で購入した『石岡の地名』(市教育委員会編)が役立った。やはり石岡市内にも富士関係の小字がいくつかあるのだが、そのうち現在の総社二丁目の小字「富士」の欄にこんな解説があった。「総社宮と道を隔てて相対している南方の丘で、俗に、“お富士山”といっている、浅間神社と称する祠があり、昔は、毎年秋の彼岸には盛大に祭事が行われ・・・・」。やはりそうか、笠間市の富士山でおばあちゃんが「オフジヤマ」といっていたのは、まさに富士信仰ゆえの「お富士」なのだろう。
 富士講は関八州だけでなく、北海道から鹿児島まで広がったという。フジヅルの山も富士講の山も、富士山に似た山も、それから富士見町や富士見台にいたるまで、思えばこれだけ人心を惹きつけ、各地に地名を刻ませた山はほかにないだろう。

(株式会社講談社刊 日本の地名遺産「難読・おもしろ・謎解き」探訪記51 より

 

 

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