「富士山」逸話あれこれ

25. 富士山(1)―最高峰に託す日本人の思い                                               

 

高く貫き神の山富士は火の山だった    

   「天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貫き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言い継ぎ行かむ 不尽の高嶺は

  反歌

  田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ 不尽の高嶺に雪は降りける」

  『万葉集』巻三に「不尽山を望める歌一首ならびに短歌」として載る山部赤人の歌である。すぐそのあとに高橋連虫麿(たかはしのむらじむまろ)の歌も載る。

  「――日の本の やまとの国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 不尽の高嶺は 見れど飽かぬかも」

  ここには古代の人々の富士山に寄せる思いが凝縮されている。古来富士は、高く尊き神の山であった。日本最高峰のその勇姿は、昔も今も変わらない。

  中部・東海・関東の各地から富士山はよく見える。他の山と違って、どの方向から見ても山容が大きく変わることはない。ひときわ高く、すぐそれとわかる。山や丘に登ったとき、また見晴らしのよいところで山並みを望むとき、多くの人が無意識のうちに富士山を探す。そしてその姿を見つけたとき、なぜかほっとする。古くから富士山は、日本人の心の支えであり、「三国一」の山であった。

  「三国」とは日本に唐と天竺を加えた世界。三国一という表現は、ヨーロッパの概念が日本に入ってくる以前のもので、すなわち世界一ということだ。

  その富士に日本人は様々な思いを託してきた。その結果富士の山は多くの伝説に彩られることになった。高く尊き神の山は信仰の対象となり、近世に至っては「富士講」の爆発的ブームを呼んだ。さらに、絵画や工芸品にその美しい姿が富嶽図として表現された。また富士とその裾野では、多彩な人間ドラマが展開されてきた。

  「ふじ」は古来さまざまに表現されてきた。不尽・不二・不死・布士・富士・福慈・・・・・・。これは漢字到来以前から、この山が「ふじ」と呼ばれていたことを物語る。本来どのような意味かわからない。だが尽きることのない不尽、二つとない不二、死なずという不死、また富や福などを冠した表現には、それぞれに趣がある。

  富士山は活火山である。歴史にみる噴火の初見は『続日本紀』天応元年(781)7月6日の条で、「駿河国言、富士山下雨灰、木葉彫萎」とある。ついで『日本紀略』に延暦19年(800)から3年続けて噴火したとあり、『日本三代実録』(901年成立)は貞観6年(864)に、「富士郡正三位浅間大神大山火」と記して大噴火があったことを伝えている。

  この後不二の噴火は数十年おきに起こったが、さほど大きなものではなく、永保3年(1083)を最後に400年以上も沈黙する。16世紀に至り小噴火を二度記録するが、また200年近くの時を沈黙し、江戸時代の宝永4年(1707)突如大噴火した。大量の火山灰が駿河から相模、武蔵国に降り、農作物に甚大な被害を与えた。

  新田次郎の小説『怒る富士』は、災害処理に当たった関東郡代伊那半左衛門忠順が、農民救済のために奔走して、ついに幕府の米蔵を開き、そのために自決したという史実を描いている。この宝永の大噴火で宝永山ができた。

  それから今日までおよそ300年、富士山はまた沈黙を守り続けている。

 

 

富士山の造山伝説と背くらべ伝説    

  さて、富士山はどのようにして創造されたのか、伝説を繙いてみることにしよう。

  さすが日本一の高峰である富士造山伝説はスケールが大きい。二人の巨人が一晩でどちらが高い山を築くことができるか競った。一人は駿河国に富士山を、もう一人は上野国に榛名山を築いた。榛名を築く巨人は、土を掘っては畚(もっこ)に入れて担ぎ上げ、夜明け寸前には大きな山を積み上げたが、あと一畚積もうと欲張った。ところが一番鶏が鳴いたために慌てて山を崩してしまった。そのため榛名山は頂上を欠き、近くに巨人が積みそこなった一畚山ができた。いっぽう、富士山のほうはあせらずに積んで見事な高峰となった。富士を積んだ土は近江から運んだので、そこに大きな湖ができた。それが琵琶湖である。また巨人がつまずいて取り落とした土が、三上山すなわち近江富士になった。

 この伝説にはいくつかのパターンがあり、榛名の巨人が天狗であったり、富士を積んだのが神々であったりする。さらに尾鰭もつく。富士山に嫉妬した天邪鬼が、取り崩そうとした。周囲を崩しては畚に入れて天秤棒で担ぎ、相模灘へと捨てた。やがて海上に島ができ伊豆の大島となった。ところが、富士は裾野を削られ優美になっただけで一向に崩れない。天邪鬼はあきらめて天秤に担いだ前後の畚を捨てた。それが箱根の二子山になった。

 なお「富士本宮浅間社記」によれば、孝霊天皇の5年、にわかに大噴火して富士山が湧き出したという。住民は逃げ去り、国も荒れ果てたので垂仁天皇の3年に噴火を鎮めるため山麓に大神を奉斎した、と浅間進行のはじまりを記す。この伝承は、富士講が盛んとなった江戸時代には広く知られていたようで、葛飾北斎の浮世絵にも、孝霊天皇の御世に湧き出た富士の新山に、群衆が驚きあきれている図柄がある。「孝霊5年あれを見いあれを見い」という川柳も作られた。この新山湧出のとき、近江の地が避けて琵琶湖が出現したという。

 富士山と琵琶湖の因縁は浅からぬようで、今日でも、琵琶湖の水を汲んで登山し、富士山頂に奉げ、代わりに山頂の霊水を持って下山するという風習が続いているという。

 よく知られた伝説に、富士山と他の山の背くらべ譚がある。

 

 諸国の名峰は、「我こそが日本一」と思っていた。そこで三国一と称えられる富士山と高さを競うが、ことごとく敗れてしまう。だが加賀の白山だけは譲らない。二つの山は甲斐の白根山、信濃の八ヶ岳と木曾の御嶽を判者に立てて背くらべをした。しかし判定がつきかねた。そこで二つの山の頂に樋を架け、真ん中から水を流すことにした。水は初め富士山に流れかけたが、やがてゆっくりと白山に向かって流れていった。あわてた白山の神の一人が草鞋を脱いで樋の下に差し込んだ。だが時すでに遅く、水は白山の頂を濡らして富士が日本一に決し、白山は日本第2位に甘んじることになった・・・・・。

 白山は古くから山頂に草鞋を奉納する風習があるが、これは富士との背くらべに敗けた白山の神を慰めるためという。草鞋を奉納しないと、山も神の怒りに触れて遭難することがあるという。

 こんな話もある。富士山と八ヶ岳が背くらべをした。富士の神は木花之開耶姫(木花之佐久夜毘売)、八ヶ岳の神は姉の磐長姫(いわながひめ)で、阿弥陀如来に判定を頼んだ。阿弥陀は二つの山に樋を架け、真ん中から水を流した。水は富士山のほうに流れ、八ヶ岳の勝ちとなった。木花之開耶姫は悔しさのあまり八ヶ岳を蹴とばした。すると八ヶ岳の頂は砕けて、八つの峰に分かれてしまった。

 磐長姫と木花之開耶姫の姉妹にまつわる別の話。磐長姫を神とする伊豆の下田富士と開耶姫の駿河の富士は高さもあまり違わず仲のよい山であった。だが成長するに従い、磐長姫は醜くなり、開耶姫は輝くばかりに美しくなった。やがて磐長姫はわが身の醜さを嘆き悲しみ、妹と顔を合わせるのを嫌うようになった。そしてついに、二人の間に屏風を立ててしまった。これが天城の山々である。開耶姫はわけがわからず、瀬のびをして姉を見ようとした、だが磐長姫は見られまいとして身をかがめる。妹はますます背のびをする。姉はいよいよ身を縮める。こうして駿河富士は高々と聳え立ち、下田富士は小さな山になってしまった・・・・・。

 『常陸国風土記』は、筑波山との比較で次のような話を載せる。諸国をめぐり歩く神祖尊(みおやのみこと)が、新嘗の火に富士山を訪ねた。ところが富士の神は新嘗祭で忙しいからと一夜の宿を断った。

神祖尊は嘆き恨んで、

「この山は生涯冬も夏も雪が降り積もって寒く、人が登れず、飲食を供える者もなくしよう」といい、今度は常陸の筑波山に行き宿を乞うた。筑波山は新嘗祭にもかかわらず、快く宿を供し、飲食を奉った。喜んだ神祖尊は、
「・・・・・天地(あめつち)とひとしく 月日と共同(とも)に 人民(たみぐさ)集い賀(よろこ)び 飲食(みけみき)豊かに 代々(よよ)絶ゆることなく 日々に弥(いや)栄え 千秋万歳(ちあきよろずよ) たのしみ窮(きわま)らじ」

  と歌った。それから富士山はいつも雪に覆われて登る人もなく、筑波山は昼も夜も人が集い、歌い飲食をするようになった・・・・。

 『常陸国風土記』の成立は養老年間(717~24)だが、このころすでに筑波山に男女が集う嬥歌(かがい・歌垣(うたがき))の場であった。

 

 

富士山の神となった木花之開耶姫と浅間の神    

  ところで、『常陸国風土記』に登場する富士の神は、とくに女神ではない。『日本三代実録』の貞観6年の大噴火の記事の中に、富士の神が浅間明神として出てくるが、まだ女神としては登場しない。

  女神が登場するのは平安中期に成立した『本朝文粋(ほんちょうもんすい)』中に収録された

 ところが、平安時代の初期には成立していたと思われる『竹取物語』に、つぎのような話が出てくる。かぐや姫は月に帰ってしまうが、育ててくれた竹取の老夫婦に形見の美しい衣服と不死の薬を置いていく。姫がいなくなった世に生きながらえてなんになろうと、服も薬も駿河の高い山の頂で燃やしてしまう。それから山の名は「不死」と呼ばれるようになり、山頂からは煙が立ち上るようになった。

 この話から富士の神はかぐや姫であるという伝承も生じ、「富士山記」に記された山頂の美女の話などから、やがて富士の女性は、大山祇神(おおやまつみのかみ)の娘で瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃となった木花之開耶姫に定まったらしい。その美しい山容と日本一の高峰であるところから、記紀神話の中の最も美しき女神である開耶姫に落ち着いたものであろう。いずれにせよ、日本には山の神を女神とみる信仰が古くからあった。

 富士の神はもともと「浅間(あさま)」であったらしい。「あさま」がなんの意味かは不明だが、信濃の浅間山や伊勢・志摩国境の朝熊山など、山と関係のある霊威ある語であったようだ。なお浅間の神を祀る神社は浅間神社(せんげんじんじゃ)と通称されるが、正しくは浅間神社(あさまじんじゃ)である。静岡県富士宮市の元官幣大社富士山本宮浅間神社をはじめ、富士山麓を中心に東海・関東地方に現在も広く分布している。

 浅間の神は女神となって、やがて木花之開耶姫と一体となり、浅間神社の祭神となった。そして安産と火除けの神として今日まで続くのである。なぜ安産と火除けかといえば、『古事記』に記された木花之開耶姫の次に神話に因む。

 瓊瓊杵の妻となった開耶姫は、一夜で孕んだ。ところが瓊瓊杵は自分の子かどうか疑う。開耶姫は悲しみ、産屋に籠り、

「もし国つ神の子であるなら無事に生まれるでしょう。そうでないなら焼け死ぬでしょう」

 と産屋に火をかけた。燃えさかる火の中で開耶姫は無事出産を果たした・このときに生まれたのが火照尊(ほてりのみこと 海幸彦)と火須勢理尊(ほすせりのみこと)、そして火遠理尊(ほおりのみこと 山幸彦)である・・・・。

 なお富士山頂には、中世以降、本地垂迹説によって神々の神域であるとともに仏の来迎する仏教浄土ともなり、神仏習合の新たな信仰世界を形づくる。すなわち山頂の本地仏として中央に阿弥陀、右に菩薩が来迎すると考え、神と仏を一体として信仰登山の対象となっていくのである。

 

 

伝説の登頂者と富士開山した末代聖人    

  常陸国風土記』では、神祖により人の登ることのできぬ山となっているが、高きを目指すのは人間の本能だ。噴火中はともかく、古くから富士山頂に憧れた人たちは多かったに違いない。記録上はっきりしているのは平安末期の末代(富士上人)の登頂だが、その前に伝説の登頂者たちがいる。

  『聖徳太子伝暦』(917年成立)によれば、太子は黒馬に乗って空を飛び、富士山頂に至ったという。推古天皇6年(598)のこと、諸国に令して献上させた名馬中、甲斐国産のひときわ見事な黒馬がいた。全身は黒光りし、四脚のみ白であった。太子は大いに気に入り、調教がすむとその年に9月、さっそく自ら試乗した。ところが、走ったと見るや、黒馬は手綱を取る麿とともに、太子を乗せて東天高く飛んでいってしまった。

 一日たち二日たっても太子は帰らず、臣下の者たちはおろおろするばかりであったが、三日目に二人はひょっこり帰ってきた、という。太子は平然として、富士山頂に至り、山上をめぐり歩いたのち信濃を回ってきた、という。ともに戻った麿も、眼下に山々を見て気分がよかったと言上した・・・・・・・・。

 伝説とはいえ、歴史上の人物で富士山頂に至ったのは、聖徳太子が初めてということになる。

 奈良時代の仏教説話集『日本霊異記』によれば、伊豆の大島に流された役小角(えんのおづぬ)が、夜になると海を飛び渡り、富士山に登って暁方には帰っていったという。役行者・役優婆塞(えんのうばそく)とも称される役小角は、山岳仏教・修験道の祖とされ、大和葛城山で修行し、吉野の金峰山(きんぶせん)や大峰山(おおみねやま)などを開いたという。だが、讒言によって文武天皇の3年(699)から2年間、伊豆に流された。呪術を用い自由に空を飛んだなど、小角は伝説に彩られたなぞの人物であるが、富士山麓には多くの小角伝説が残されている。いずれにせよ山岳仏教の興隆によって、富士山が信仰登山の対象として開発されたのは間違いない。

 『本朝世紀』や『本朝文粋』によれば、富士上人と号した末代が、関東・東海・東山の人々および鳥羽法皇以下京洛の人々など多くの結縁を得て「一切教」5296巻の書写を完成し、久安5年(1149)これらを富士山頂に埋め、仏閣をつくり大日寺と号したという。この頃から修験者たちの登山が多くなったらしい。

 昭和5年(1930)富士山頂で経塚が発見された。山頂奥宮拝殿に対する三島ヶ岳南麓の地中から厚さ2寸(6センチ)の分厚い板で作った1,5メートル四方の木箱が出土し、数百巻の経巻が出てきたのである。なかには「末代聖人」と記された奥書の断片もあった。まさに富士登山史上画期的な大発見であった。

 富士山が浅間神社を中心とする神の山として、古代から信仰されてきたのはまちがいない。だが末代によって大日寺が開かれ、中世以降は神仏習合によって栄えてきた。浅間神社も、「富士浅間宮」のほかに「富士大菩薩」「浅間台菩薩」また「富士権現」などとも称されてきた。だがいま、富士山頂には大日寺はなく、富士山に仏教色はのこされていない。明治初年の神仏分離令とそれに伴う廃仏毀釈によるものである。

 神仏分離が発せられると、山内にあった仏像・仏具の類はすべて取り払われ、下山させられてしまった。大日寺は廃され山頂の仏像の多くは大宮に下山させられた。書く登山口の浅間神社でも仁王門・護摩堂・鐘楼・鐘などが取り除かれた。山麓の大日堂や諸坊の多くも取り壊された。そして明治7年(1874)、富士山中の仏教的な地名もすべて改称されてしまったのである。

 山頂八葉などでは、文殊ヶ岳が三島ヶ岳、釈迦ノ割石、薬師ヶ岳が志良山(しらやま 白山)岳、阿弥陀ヶ久保が片瀬戸、観音ヶ岳が伊豆ヶ岳、勢至ヶ久保が荒巻、大日堂が浅間宮、東西(東斎)ノ川原が東安川原、西西(西斎)ノ川原が西安川原と返られた。また東登山口9合目の迎薬師は迎久須志、経ヶ岳は成就ヶ岳と変更された。こうした文化破壊が富士山でも行われたことを、今や多くの人は知らない・・・・。

(株式会社河出書房新社刊「名山の日本史」より)

 

 

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