「富士山」逸話あれこれ

26.富士山(2)―富士の大巻狩りと富士講                                               

 

富士山麓の大巻狩りと曾我兄弟の仇討ち    
 富士山麓では、さまざまな歴史ドラマが展開された。中でもよく知られたものに、源頼朝の大巻狩りがある。この巻狩りの最中に起こった曾我兄弟の仇討ち事件は、のちに芸能・文芸の世界で限りない広がりを見せ、日本人の心の中に深く根を下ろすことになった。
 平氏を滅亡させ、奥州藤原氏も滅ぼした源頼朝は、建久3年(1192)念願の征夷大将軍に補任(ぶにん)され、鎌倉幕府を開いた。
 名実ともに武家政権の棟梁となった源頼朝は、翌研究4年の5月、富士の裾野で大規模な巻狩りを実施した。
 巻狩りとは、狩競(かりくら)とも言い、中世の武士たちが山野に集い、鹿や猪などの獲物を競って狩りくらべをする競技である。狩競の大規模なものを、特に巻狩りといい、軍事訓練を兼ねて行われた。頼朝の大規模な巻狩りの挙行は、加えて武家社会の樹立を内外に示す一台デモンストレーションでもあった。このとき富士野に集まったのは、射手(いて)だけでも1570名、馳せ参じた武者たちに動員された勢子(せこ)を加えると、10万人を超える大人数であったという。その富士野は、現在の御殿場のあたり一帯とも、富士市から富士宮にかけての地であったとも言われる。
 いずれにせよ、5月の中旬から下旬にかけて、何日間もわたって巻狩りは実施された。現在の暦では6月の下旬にあたり、梅雨の時季であった。とはいえ、五月晴れの日には、残雪をいただいた富士山が眼前に迫り、裾野の草々も木々も緑に輝いて、大巻狩りにふさわしい日となったであろう。
 頼朝はこの巻狩りに嫡男の頼家を伴っていた。頼家はまだ12歳であったが、このとき初めて鹿を射止めたという。頼朝は大いに喜び、山神に感謝する矢口(やのくち)祭りを行い、鎌倉の妻北条政子へ使いを出した。だが政子は、「武将の嫡男として原野の鹿を獲ること、あながち稀有からず」と冷ややかに使者を追い返したという。『吾妻鏡』に載る有名な話だ。
 さて、5月28日。前日巻狩りは最高潮に達したが、この日は一日中雨で、頼朝の本陣が置かれた仮屋では酒宴が開かれた。その夜のことである。曾我十郎・五郎の兄弟が仮屋に忍び込み、親の敵である工藤祐経(すけつね)を殺害するという事件が起こった。
 事件の発端は17年前の安元2年(1176)にさかのぼる。十郎祐成(すけなり)・五郎時到(ときむね)兄弟の父河津祐通(すけみち 祐泰(すけやす)とも)は、所領をめぐって一族の工藤祐経と争い、祐経の従者によって殺害されてしまった。祐通の妻は、まだ幼かった兄弟を連れて、曾我祐信(すけのぶ)に再嫁した。やがて元服した兄弟は、源頼朝の重臣として近侍するようになっていた工藤祐経を、親の敵として討とうと決心する。そして建久4年、富士の巻狩りで機会をとらえ、ついに仇討ちを成就させたのだ。
 だがその直後、兄弟は出会った侍たちと斬り合いになり、十郎は斬り死にし、五郎は捕らえられてしまった。十郎を切ったのは新田(仁田)四郎忠常と伝えられる。頼朝は武勇に感じて五郎を赦そうとしたが、祐経の子犬房丸の請いによって引き渡し、五郎は犬房丸によって斬られたという。

「曾我物」への発展と「仮名手本忠臣蔵」    
 富士の裾野で展開された大イベントの最中に起こった事件である。またたく間に流布していったようだ。同時にさまざまな伝承が生まれることになる。やがてこの事件を素材とした物語は、能・幸若舞・浄瑠璃さらに歌舞伎狂言へと広がりをみせ、芸能の世界で「曾我物」といわれる一大系統へ発展していった。
ことに江戸時代、江戸歌舞伎の世界では、明暦元年(1655)に上演された「曾我十番斬」がヒットして以来、おびただしい「曾我物」がつくられ、「仮名手本忠臣蔵」の登場まで荒事の狂言として人気を独占し続けた。享保年間(1716~36)以降は、江戸の初春興行には必ず曾我狂言を出す習慣が生まれた。これは、宝永5年(1708)正月に中村座で演じられた「傾城嵐曾我(けいせいあらしそが)」が大当たりをとったことに因む。また、五郎を御霊神(ごりようじん)に架けて崇める考えも生じ、正月歌舞伎は、「曾我物」なくしては開かぬことになったのだ。
やがて、寛延元年81748)に「仮名手本忠臣蔵」が登場して大人気を博し、以後さまざまな義士物がつくられて、江戸時代の後期は曾我物と忠臣蔵が人気を二分することになる。ともあれ、曾我兄弟の仇討ちの物語は歌舞伎の人気に伴い、江戸時代になって広く庶民の心の中に根を下ろすことになった。これは、物語の背景に富士山があることと決して無縁ではあるまい。江戸時代には庶民の間に富士講が爆発的ブームとなる。
 ところで、元禄15年(1702)10月、吉良邸討ち入りを決意した大石内蔵助は、潮田又之丞、近松勘六らと東海道を下って江戸に入る。現行暦では11月のことであり、富士山はすでに中腹以上を白く装っていたことであろう。大石らはその富士を仰ぎ見ながら江戸を目指したのだ。そして、箱根では芦ノ湯に残る曾我兄弟の墓に詣で、仇討ちの成就を祈願している。そのとき大石は、まさか自分が、曾我兄弟と肩を並べる人気狂言の主人公になるなどとは、思いもしなかったであろう。
なお曾我兄弟の墓と伝えられるものは、あちこちに残されている。箱根山中のものは中でもよく知られており、古い五輪塔が3基並んでいる。左の2基が十郎と五郎の墓で、もう1つは虎御前の墓と伝えられる。虎御前は三島の遊女だが、十郎の恋人であった。事件後、尼となって箱根山中に住んだとも、巡礼の旅に出て行方がわからなくなったともいう。
 仇討ちの日、すなわち陰暦5月28日は梅雨のさ中であり、よく雨が降る。この日降る雨のことを「虎が雨」という。「曾我物」が広く流布していた近代までは、だれもが知っていた雨の呼称であった。因みに今年(平成12=2000)の陰暦5月28日は、6月29日に相当する。果たして虎が雨は降るであろうか。それとも富士が姿をみせるであろうか・・・・・。

富士の人穴と富士講の祖角行    
 さて、『吾妻鏡』には、建仁3年(1203)の源頼朝による富士の巻狩りの際、新田(仁田)四郎忠常が富士の人穴を探索した話が出てくる。曾我兄弟の仇討ちがあった建久4年の巻狩りから10年後のことだ。
忠常は5人の郎党を従えて人穴に入っていったが、途中大河があって渡れず、対岸を松明で確かめようとしたところ奇特(きどく)を見て、郎党4人がたちまち死んでしまった。忠常は将軍から授かった太刀を川に投じ、翌日やっと戻ることができた。古老に聞くと、人穴は「浅間大菩薩の御在所」なのだという。
室町時代に成立した『御伽草子』の富士権現の霊験譚を記す「富士の人穴」によれば、仁田四郎が浅間菩薩に案内されて地獄めぐりをしたことになっている。
室町時代になると、信仰登山としての富士登拝が盛んになった。だがこの頃の登山は修験道の色彩が濃く、登山者は結袈裟(ゆいげさ)をつけ、白装束に鈴、金剛杖を携え、首には宝冠をかけた富士道者たちであった。彼らは山頂で日の出すなわち御来光を拝し、山麓では洞窟の中に入る胎内くぐりを行った。山上と共に洞窟は富士信仰の聖地であった。
中世末期、戦国時代の永禄年間(1558~70)のころ、富士の人穴に籠って修業した行者がいた。長谷川角行である。角行については、さまざまな伝説に彩られているものの、不詳な点が多いが、富士講の元祖とされる。すなわち、角行は千日に及ぶ人穴での修業ののち、庶民に富士信仰を説き、富士登山のための講をはじめたのだという。やがて富士講は江戸庶民のあいだに爆発的なブームを呼ぶことになる。
その角行と徳川家康がからむ伝説がある。
天正10年(1582)のこと、家康は甲斐武田氏を滅ぼすために甲州に攻め入るが、逆に攻められて逃げ帰る。だが、追手の軍勢が追いかけてきて、家康はピンチを迎える。そのとき家康が逃げ込んだのが富士の人穴であった。洞窟内をたどっていくと、石の上に端座した行者はいた。行者は洞窟の奥を指差し、家康はそこに隠れた。すると一匹の蜘蛛が現れ、入口に巣をかけた。そこに追手がやってきた。だが蜘蛛の巣を見て奥へは行かずに引き揚げ、家康は九死に一生を得たのであった。その行者こそは角行であり、家康は追手が引き揚げたあと、角行と語らい、教えを受けた、という。
もちろん史実ではない。天正10年3月、家康は信長と共に甲斐を攻め、武田勝頼を甲州田野の山中に攻め滅ぼしている。(俗にいう天目山の戦い)。
富士の行者角行の評判は、元和年間(1615~24)のころ、江戸で評判となった。角行が自らの血で書いたという富士山の絵入りの護符が残されているが、そうした護符を持ち帰った者たちが、護符の一片を飲むことによって万病が治るなどという噂を広めたらしい。あるいは、富士の霊験を説き広め御師(おし)たちの宣伝であったろうか。
御師というのは、特定の社寺に所属して、その社寺への参詣客を誘い、宿泊や祈祷などを取り扱った者たちをいう。富士山の場合、浅間神社の属する御師たちが、山麓の大宮、村山、須山、須走、吉田、河口などに宿坊を構え、各地をめぐって活動を続けていた。
富士山の護符の霊験と角行を聖者とする噂が広まると、幕府がそれを詮議するということがあったらしい。人心を惑わす者として取り調べを受けたが、本多正純の弁護によって罪を免れ赦免されたという。その後角行は、家康の危機を救った行者という評判なども広がり、富士講隆盛の基を築いたという。やがてその角行を開祖とする富士講が、江戸八百八講といわれるほどの隆盛期を迎えることになるのだ。
講というのは、特定の社寺に参詣するための団体組織で、江戸中期ごろになると庶民の間でも社寺参詣の旅が盛んになり、伊勢講をはじめ多くの講が発達した。富士講もその一つである。
富士講が発達した背景に御師たちの活躍があったことを見逃してはならない。彼らは富士の霊験を説き、富士登山の意義と御利益を宣伝して、自らの宿坊を基地とする講の組織化をうながした。
江戸時代に、講に属さずに庶民が社寺参詣の旅をすることは、かなり面倒であった。講に入ると、パスポートすなわち通行手形の取得から、往復の交通手段の手当て、旅行に必要な物品や心得の用意や指導、宿泊などのすべての面倒を見てもらえたのである。
富士講の場合、登山に必要な衣装や笠、杖にいたるまであらゆる必要品を手配した。あさらにさまざまな土産品、御札や掛軸、置物なども用意されていた。
講元はいわば団体旅行専門の旅行会社であり、御師たちが宣伝に努めたのは、客を自らの宿坊に誘致するためであった。
こうして富士講は盛んになっていったが、もう一つの背景に庶民の消費生活の向上があったからでもあった。そして、享保18年(1733)、ブームのきっかけをなす出来事が起こる。

食行身禄の入定と江戸庶民の富士講ブーム    
 万物の根元は仙元(浅間)大菩薩の霊威に帰すと唱え、富士講の祖となった角行は、正保3年(1646)富士の人穴で没した。106歳であったという。その道統は弟子の日玥(にちがん)、玥心(がんしん)、月旺(げつおう)らに受け継がれ、やがてそれは光清派と身禄派に分かれ、さらに多くの分派を生じて八百八講につながっていくことになる。
ブームのきっかけとなる出来事とは、身禄派の祖である食行身禄(じきぎょうみろく)の入定(にゅうじょう)であった。享保18年6月、富士講第6世も身禄は山頂に登排したのち、中腹7合目(現在の7号5勺)烏帽子岩の陰に3尺(約90センチ)四方の小さな厨子をしつらえ、その中に籠った。ここで断食修行に入り、1日に雪1椀だけを口にして、1ヵ月後の7月13日、入定したという。
身禄は、いっさいの名利栄達を拒否し、人々からは乞食身禄と陰口をたたかれたほどの貧しい身なりで、ひたすら修行を続けると共に富士の霊威を説き続けた行者であったという。その身禄が富士山で入定したというニュースは、たちまち江戸庶民の間に広まった。その噂がさまざまな身禄伝説を生むことになる。さる大名が身禄の噂を聞き、ぜひ会って話を聴きたいと使いを出したが、いくら頭を下げても身禄はこれに応じなかった。使者が供物を持ってきたからであった、という話などが流布された。
権力に媚を売らず、金銭欲を持たない身禄の生き方が江戸の庶民たちの人気を呼び、富士講のブームとつながっていった。また身禄を弥勒菩薩に重ねて尊びもした。もっとも、身禄の入定を宣伝し、伝説を広めていったのは御師たちであったろう。
ともあれ身禄の入定以来、富士を目指す人々が増えたのはまちがいない。富士山に登排し、胎内をめぐることで再生するという信仰が広く江戸庶民の間に行き渡ったというが、登山者が増えたのはそれだけではあるまい。
江戸は起伏に富んだ街だが、あちこちから富士山はよく見えた。富士見ヶ丘、富士見台、富士見坂、富士見橋、富士見町といった地名が、今でも数多く残されている。三国一と謳われたその霊峰の頂に一度は立ってみたいと思うのは、おそらく本能的なものだ。一度ならずとも二度三度、さらには数十回も登山する人たちもいた。彼らがすべて、信仰心や自らの修行のために登山を繰り返したとは思えない。汗を流し、苦労の末に頂上を極めたときの爽快感、見渡す限りの雲海、仰ぎ見る夜空の星々、そうしたものへの思いが、登山中には再びこのような辛い思いはすまいと思いつつも、また次の年になると富士登山へと向かわせる、ということもあったと思われる。
つまり、形は違うとはいえ、アルピニズムの萌芽といったものを、筆者は近世の富士登山者の群れに見る思いがするのである。
富士講がブームになるにつれて、江戸の各所の神社の境内などに、富士塚と呼ばれるミニ富士がつくられた。これは、老人や子ども、身体の弱い者など、本物の富士山に登ることのできない人々のためにつくられ、こちらも人気を集めた。6月1日(旧暦)の山開きのときには、白い行者姿の富士講中の者たちが、富士禅定にならって富士塚に登った。いまでも東京や近郊の各所の神社などに、多くの富士塚が残されている。
こうして富士登山ブームは、山岳信仰とは離れたものの、近代に至ってもいっこうに衰えず、今日ますます盛んである。

(株式会社河出書房新社刊「名山の日本史」より)

 

 

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