| 27. 富士山(3)―大噴火とその後の富士 |
| 宝永4年の大噴火と降灰による災害と飢饉 |
富士山南麓では、地割れで地下水が噴出したり、山崩れで集落が全滅するなど、大きな被害をだした。その山崩れは富士川を塞き止め、3日後には決潰して抱く秀が駿河湾へと押し出した。海上のはるか先まで濁流の帯が続いたという。
大地震の翌日の10月5日の午前8時ごろ、再び富士山麓を中心に強い地震が発生した。甲斐や江戸では前日の地震よりも強く感じたという。
この2日間の地震で、少なくとも死者2万人、流失家屋2万戸、全半壊等の家屋に被害は11万戸を超えたと推定される。
富士山が突然大爆発を起こしたのは、自身からおよそ50日後の、宝永4年11月23日のことである。頂上からの噴火ではなく、火を噴いたのは6合目付近の南東斜面であった。
噴火は12月8日の夜半まで続き、山麓の村々を焼いたり肺に埋めたりしただけでなく、駿河、相模、武蔵の国々に降灰による未曾有の被害をもたらした。噴火のあとには、巨大な噴火口とその縁に盛り上がった新山・宝永山ができた。
大噴火の日、23日の午後3時ごろから、西風に運ばれた火山灰が江戸の町に降りはじめた。はじめは鼠色の灰が降り、次第に激しくなり、今度は黒砂が夕立のごとく屋根を叩き、江戸中は真暗になったという。『折たく柴に記』によれば、新井白石は講義中であったが、燭をともして講義を続けたという。
風下にあたる富士山東麓の被害は甚大であった。須走村などは火山礫や灰に埋まって全滅した。記録によれば山麓では3尺から5尺(約90センチから1,5メートル)も灰が積もったという。
昭和36年(1961)に御殿場市の中畑で発掘された住居址を見ると、火山灰の深さは約2メートル、その下に細かな軽石が15から20センチの層をなしていた。この厖大な火山灰は、田畑を埋め尽くしただけでなく、雨で酒匂川に流入し川底を押し上げた。このため大雨のたびに氾濫し足柄平野(小田原市)に洪水をもたらすという二次災害を招いた。
この降灰被害をもろに受けたのが小田原藩領の農民であった。藩内104ヵ村4000人の農民たちは、救済を幕府に求めた。壊滅的な打撃を蒙った小田原藩では、なす術がなかった。
幕府は小田原藩による自力復興は困難と認め、宝永5年(1708)閏正月7日、藩領のうち駿河駿東郡と相模国足柄上・下郡の190ヵ村56000石分を上知(あげち)した。すなわち、その分を天領に組み入れて、幕府が直接復旧工事に当たることにしたのである。その責任者に任命されたのが、関東郡代伊奈半左衛門忠順であった。
幕府は諸大名に対し、石高100石につき2両宛の国役金を賦課した。計48万両余が集まったという。だが実際に復旧工事に投入されたのは16万両に過ぎなかった。もっともらしい名目をたてて増税し、ちゃっかり他に流用するという国家の体質は、今も昔も変わらない。
だが、伊奈忠順は被災者の立場に立って、全力で復旧工事に当たった。被災地の現状をつぶさに調査し、扶助米や家作料を下付するなど努力を重ねた。しかし農民の飢餓状態は予想以上で、餓死する者あとを絶たず、工事はなかなか軌道に乗らなかった。復旧工事よりも、工事に従事する農民の飢えを救うほうが先決であった。
忠順はしきりに幕府に対して非常米の支給を願った。幕府の米蔵には、かなりの貯蔵米が眠っていた。だが幕府は、貯蔵米の使用を認めなかった。ついに忠順は、独断で駿府紺屋町代官所の米蔵を開け、13000石に及ぶ貯蔵米を運び出して、各村の窮民たちに配分したのであった。
その結果多くの農民が救われたが、忠順は罷免されることになり、正徳2年(1712)2月29日、切腹して自ら命を絶った。幕府は農民たちへの影響を慮り、病死ということにして、養子忠逵(ただみち)に伊奈家を継がせ、復旧工事を継続させた。羅災地がすべて旧に復したのは、30年後のことであった。
| 女人禁制を打ち破って富士山に登頂した女性 |
山麓で最も大きな被害を受けた須走村は、翌年夏には早くも復興を成しとげている。これは須走村が、農業ではなく富士登山によって成り立つ村であったからだ。噴火の翌年、開山期まで半年間の突貫工事で、六月一日の山開きに間に合わせた。その間、御師たちの宣伝活動など大活躍があったであろう。大噴火のニュースは日本中を駆けめぐった。その宣伝効果は絶大なもので、噴火が収まったとなれば登ってみたいと思うのは人情だ。火山国に住む日本人は、噴火が鎮まって静寂を取り戻した山が、少なくとも何十年間かは安全であることを知っていた。
こうして大噴火の翌年には、多くの登山者が列をなして山頂を目指し、以前にも増して富士詣では盛んになっていったのである。食行身禄が富士山で入定したのは、噴火から二十六年後のことであった。そのことが新たなる引き鉄となって、富士登山が一大ブームとなったことは、前項に記したとおりである。
だが、富士山に登ることができるのは、男性に限られていた。富士山のみならず、山岳信仰の霊場はほとんどが女人禁制であった。女性を不浄の存在と考えて、山を汚れさせないために登ることを許さなかった。しかし、こうした女人不浄の思想に基づく習慣は、男尊女卑社会が定着をみた近世になって確立されたらしい。
本来、神との対話ができるのは女性であった。巫女である。富士の木花之咲耶姫をはじめ、山の神もほとんどの場合女性だ。だから、山の神が嫉妬して女人の登山を嫌うのだというのは、まったくの俗説である。仏教の浸透により、女性は罪深き存在であるという考えが広まったのと、山岳修験者にとって女性は修行の妨げになる存在であったこと、そして男尊女卑の定着が、女人禁制を生み出したといえる。
もっとも、いついかなるときでも女性が登れなかったわけではない。富士山の場合、庚申(かのえさる)の年には女性の登山を許可した。富士山が一夜にして出来上がったという孝霊天皇五年は庚申に当たる。いわば富士山誕生記念の特別女性サービス年ということになろうか。
庚申年である寛政十二年(一八〇〇)の「大鏡坊道者帳」によれば、登山のための二千人の宿泊者のなかに三人だけ女性がいたという。どのような女性であったかは、一切わかっていない。
記録としてはっきりしている富士登山第一号は、江戸、深川の「たつ」という二十五歳の女性で、天保三年(一八三二)九月下旬のことであった。彼女を同行したのは、富士講第八世という身禄派の行者小谷三志(こたにさんし)である。
三志は武蔵国足立郡鳩ヶ谷宿(埼玉県鳩ヶ谷市)の人。食行身禄を継いだ参行禄王(さんぎょうろくおう)の跡を受けた行者で、やがて多くの信者を得て不二道を立てた民間宗教家である。二宮尊徳との交流も深かったという。三志は、身禄の教え「四民平等」と「男女平等」を人々に説き、自らも実践につとめた。女性による富士登山の実行も、ひそかに狙っていたらしい。そして、その時が到来したのだ。
たつは尾張徳川家江戸屋敷の奥女中を勤めた女性という。辰年生まれ、名も辰、この年も辰年であったところから、三志は彼女に「三辰」という行者名を与え、男装させて五人の同行者を加え、七人で登った。山頂付近はすでに雪に埋もれていたという。このとき三志は六十八歳であった。
このことがあって後、男装して富士登山を行った女性が少なからずいたというが、不詳である、近世で登頂がはっきりしている富士登山女性第二号は、幕末のイギリス人外交官パークスの夫人である。登頂は慶応三年(一八六七)九月のことであった。
ちなみに、外国人の富士登山第一号は、幕末に日本駐在の総領事として来日したイギリスの外交官オールコックである。万延元年(一八六〇)七月、オールコック以下イギリス公使館員六人と英国インド艦隊のロビンソン大尉、それに植物学者のヴィーチをくわえた八人。このときの模様は、オールコックの著書『大君の都―幕末日本滞在記』(岩波文庫)に詳しい。
| 絵画に描かれた富士と近世以降の富士山頂 |
富士山が絵画に描かれるようになるのは、平安時代からで、以後現代に至るまでおびただしい数の富嶽図が描かれて続けてきた。
古い時代の富嶽図には、宗教色を帯びるものが多い。日本の最高峰として古くから日本人の精神文化のなかに深く根付いていたからであろう。「聖徳太子絵伝」は、平安時代から鎌倉時代にかけて、何種類もがつくられるが、必ず富士山が登場する。「太子伝」のなかに記された、太子が黒駒に乗って空を翔け富士山頂に至ったという伝説の部分を絵にしたものだ。太子が聖人化されていくなかで、富士山頂をきわめたというシチュエーションは、極めて重要な意味をもったと思われる。
やがて富士山は、「一遍上人絵伝」や「遊行上人縁起絵」などに登場するようになる。前者には日本各地の風景や貴賎の風俗が表されるが、富士は、武蔵国の住人鰺坂(あじさか)入道が富士川に入水する場面の背景として描かれる。ひときわ白く高く聳え立ち、極楽往生を願う人間を見下ろす富士の姿は、絵巻物に描かれた富嶽図中の白眉といえる。正安元年(一二九九)の作で国宝。藤沢市の清浄光寺と京都市の歓喜光寺が分けて所蔵している。「遊行上人縁起絵巻」元亭三年(一三二三)の作で重要文化財。神戸市の真光寺所蔵である。甲州の御坂峠で他阿上人と板垣入道が別れる場面の背景で、真白な富士の頂上からは、かすかに噴煙がたなびいている。
「伊勢物語絵巻」(鎌倉時代・重要文化財。和泉寺久保惣記念美術館蔵)にも、東下りの途中で在原業平が富士の高さに驚く場面がある。
室町時代になると、美術的な絵画の対象として富士が描かれるようになる。雪舟の描いた「富士清見寺図」(東京・永青文庫蔵)は名高い。そして江戸時代に入るとさまざまな富嶽図が登場する。狩野探幽や尾形光琳、池大雅(いけのたいが)や与謝蕪村、酒井抱一、司馬江漢など富士の名画をのこした画人は多い。このうち池大雅は山登りが大好きで、各地の山に足跡を残しているが、富士山にも二度登頂している。また司馬江漢は、何点かの洋風画による富嶽図を残した。
浮世絵にも富士を描いたものは少なくないが、なかで葛飾北斎の「富嶽三十六景」はよく知られている。浮世絵のなかでというより、富嶽図のまさに傑作である。天保二年(一八三一)から四年ごろにかけて刊行されたもので、三十六景というが実際には四十六図がある。単純だが極めて印象的な色彩と大胆な構図で、「赤富士」として知られる「凱風快晴」や、「神奈川沖浪裏」などは、なかでも特に著名だ。その色彩と構図は、のちにフランス印象派の画家たちに影響を与えたほどである。
近代に入っても多くの画家たちが富士を描いた。富岡鉄斎や横山大観、奥村土牛、洋画でも高橋由一や昭和に入り林武、梅原龍三郎ほか、富士の名画を残した画家は多い。
ところで、近代に至っても富士登山は盛んであったが、一般の登山期は夏の二ヶ月間、山開きから閉山の間に限られていた。明治五年(一八七二)十一月九日からは現行の太陽暦となり、その後、山開きは七月一日、山じまいは八月二十五日となって今日に至っている。山じまいの翌日八月二十六日の夜は、富士山吉田の北口本宮富士浅間神社の秋季大祭が行われる。有名な吉田の火祭りだ。この日から富士の山は、翌年の夏まで長い眠りにつくことになる。
だが明治の後半になると、近代アルピニズムの萌芽に伴い、閉山期間に山に登る者たちが出てきた。日本アルプスをヨーロッパに紹介し、また日本の近代登山史に大きな足跡を残したウォルター・ウェストンが明治二十五年(一八九二)に富士山に登ったのは、まだ残雪に閉ざされていた五月十八日のことであった。
その三年後の明治二十六年の厳冬期、一月と二月の二回、富士山に挑んだ日本人がいた。登山家ではない。若き気象学者である。野中到(いたる)。このとき二十九歳であった。高層気象観測を志し、冬期の富士山頂での観測を目指したのだ。
だが第一回目の正月四日の登山は、猛吹雪と氷雪に阻まれて失敗した。だが野中はめげずに二月二十四日、再度の登山を試み、風雪に悩まされながらもとにかく山頂に達した。自信を得た野中は、その年の五月、三回目の富士登山を行い、石室等を調査した。そして八月、村民らの協力を得て資材を山頂に運び上げ、九月末に単独で山頂に向かった、頂上に到着したのは三十日の夜半という。翌日から野中は、たった一人で富士山頂の粗末な小屋で気象観測を開始する。十月に入ると早や山頂は雪に閉ざされる。だが野中は、翌春の雪解けまで、ここで観測を続けようと決心していたのだ。
野中の妻千代が、案内人や強力たちに授けられて富士山頂に現れたのは十月十二日のことであった。三歳の長女を実家に預け、夫と二人で越冬する覚悟で登ってきたのだ。雪と氷のなかでの二人の山頂での観測生活が始まった。気象台の和田技師が、御殿場の警察署長と巡査、それに強力らと共に越冬の山頂にやってきたのは十二月二十二日である。彼らは野中夫妻の危険を察し、強制的に二人を下山させた。夫妻は野菜などのビタミン不足で手足もむくみ、凍傷にもかかり、幽鬼のごとき状態であったという。それでもなお、野中夫妻は山頂で頑張り続けようとしていた。
結局二人は下山を余儀なくされたが、冬期の富士山頂での観測は八十二日間に及び、これまで誰も得ることのできなかった貴重な高層気象のデータをもたらした。だが、その後富士山頂での冬期の観測は進まず、山頂で年中無休の観測が行われるようになるのは、昭和七年(一九三二)になってからであった。
なお野中夫妻を描いた感動的な長編小説に、新田次郎の『芙蓉の人』がある。新田次郎は、昭和七年から十二年まで中央気象台の職員として富士山観測所に勤務し、山頂での越冬も経験していた。迫力あふるる自然描写と、思わず寒さで身ぶるいするほどの臨場感は、新田自身の貴重な経験に基づくものといえる。
今も富士山頂は、六ヶ月間の間雪と氷に閉ざされる。設備も整い暖房も完全な山頂測候所が建つとはいえ、冬期に一歩外へ出れば、太古から変わることのない白き神々の世界なのである。
(株式会社河出書房新社刊「名山の日本史」より)
