| 36. 「聖徳太子伝説」 天翔ける黒駒 |
近年の日本史学においては、聖徳太子の実在を疑う説が提出され、それをめぐって論議が展開されている。問題提起をしたのは大山誠一氏で、氏によれば「王族の一人として(厩)廐戸王という人物が実在したことは確かであるが」、その廐戸王が憲法十七条を制定し、『三経義理疏(さんきょうぎしょ)』などの仏書を著した聖人、聖徳太子であったとは考えられない。「聖徳太子は『日本書紀』の中で誕生」した、当時の為政者が作り出した虚像であるという(大山誠一『<聖徳太子>の誕生』)。
ここでは右の学説の当否を問うつもりは全くない。ともかく、太子信仰は『万葉集』においてすでにはっきりとした形をとっている。そして以後今日に至っているのである。その信仰の一つの現れとして、青年時代の聖徳太子が天を翔ける馬に騎して富士山頂を飛んだという伝説が、平安時代初期に成ったと考えられる『聖徳太子伝暦』(平氏伝)に語られている。富士山の文学の比較的早い例として、同書のその記述を辿ってみよう。
推古天皇の六年(五九八)、聖徳太子は二十五歳の青年であった。この年四月、太子は善い馬を求めよと左右の者に命じた。諸国から貢進された数百匹の馬の中に甲斐の国から献じられた、烏のように漆黒で脚の白い一頭の馬がいた。太子はこの馬を指して、「これは神馬である」と言って、残りの馬は皆戻させ、舎人の調使麻呂に飼養させた。
九月、太子はこの馬を馭して雲に浮かび、東の方へ飛び去った。お側の者達は仰ぎ見るばかりであったが、調使麻呂だけは御馬の右に付いて、共に雲の中に入ってしまった。三日後に、太子は馬の轡を廻して帰って来て、左右の者に語った。「私はこの馬に乗って雲を踏み霧を凌いで、直ちに『附神岳』の上に至り、転じて信濃国に至り、電光のように飛び、越の国を経て、今帰って来た。麻呂が疲労も忘れて随ったのは、まことに忠節であった。」これに対して、調使麻呂は「空を履むのではなく、両脚で陸地を踏み歩くような心地でした。ただ山々が脚下にあるのを見ました」と申し上げた。
推古天皇三十年(六二二)二月二十二日、聖徳太子は斑鳩宮でなくなった。四十九歳。なきがらは生前築かせておいた河内国科長陵(しながのみささぎ)に葬られた。太子の薨じた日、かの馬はいなないて草や水を採ることなく、鞍を置かれたまま太子のなきがらを乗せた輿について陵墓に至り、葬礼が終わると大きくいなないて一度踊りあがり、ばったりと倒れて死んでしまった。群臣は不思議なこととし、この馬の死骸を中宮寺の南の墓に埋めた。
この構図の大きな伝説は、以後の聖徳太子絵伝のたぐいでかっこうの画面として具象化され、種々の影響作品を生んだ。鎌倉時代には、宴会などで歌われた早歌(そうか)の「海道 下」で、
跡を忍ぶも及ばぬは、上宮太子の黒駒の蹄(ひづめ)に知られし富士の嶺の、その鳴沢の心地して
と歌われている。近松門左衛門の人形浄瑠璃『聖徳太子絵伝記』(享保二年〔一七一七〕十一月、竹本座初演)もその一つで、太子の富士山飛翔のくだりは四段で語られる。
日本廻りのだけだけの。ふじもつくばもめの下に。もゆるあさまのあさまにも。たにの小川のけぶりかと ひらやよかはの花ぐもり。見おろすからに一かすみ。
さながら大鳥の目で、今日でいえば飛行機の上から見おろしたように日本列島の東西を写している。人形操りではどのような仕掛けでこの場面を演じたのであろうか。
太子を乗せて天翔けた黒駒の墓とされる古塚は、中宮寺の近くの駒塚古墳、山梨県東八代郡御坂町の姥塚古墳などが知られ、塩山市の常泉寺には太子の腰掛石や黒駒の馬蹄石なるものもあるという(小野一之「愛馬、黒駒の墓と寺」、大山誠一編『聖徳太子の真実』所蔵)。ギリシャ神話のペガサスにも匹敵する天馬が、聖徳太子の甲斐の黒駒であった。
(株式会社文藝春秋刊、文春新書「富士山の文学」より)
