| 37. 『常陸国風土記』 神祖の呪い |
元明天皇は、天智天皇の第四皇女で阿閇(あべ)皇女といった。天智天皇の皇子・草壁皇子の妃となり、文武天皇を生んだ。慶雲四年(七〇七)、文武天皇が二十五歳を以って夭折した後、その遺詔により即位した。文武天皇の子・首(おびと)皇子(後に聖武天皇)はこの時七歳、皇位を継ぐにはまだ幼いと判断されたのであろう。
この女帝の治世を代表する年号が「和銅」である。七〇八年一月十一日、武蔵野国秩父郡から和銅(精錬を要しない自然銅)が献上されたことを瑞祥として、慶雲五年を和銅元年と改元したのであった。和銅五年(七一二)一月二十八日、太安万侶(おおのやすまろ)が『古事記』を撰上している。
その翌年の和銅六年五月二日、天皇は次のような命を下した。
畿内と七道との諸国の郡・郷の名には好い字を付けよ。
郡内に産する鉱物資源・植物・動物類の種類を記録し、土地の肥沃の程度、地名の由来、古老の伝える古伝承を記載して言上せよ。
すなわち、行政地名の表記の改正と、地誌である「風土記」の撰進を命じたのであった。
この官命にもとづいて諸国の風土記が編纂されたはずであるが、完本として現存するものは出雲のみ、ほぼ完全な形で伝わるものは、常陸・播磨・豊後・肥前の四ヶ国の風土記に過ぎない・
『常陸国風土記』は現存五風土記の中では最も早く、元明天皇の次の代、元正天皇(文武天皇の姉)の養老年間(七一七-七二二)には成立したと考えられている。その筑波郡の条に、古老の伝承として、人々の登る筑波山とは対照的に、富士山が一年中雲を戴く寒い山であることの理由が語られている。
昔、神祖(みおや)の尊(みこと)(神々の祖神)が神々のところを巡行されて、駿河の国の「福慈(ふじ)の岳」に来られた時に日が暮れたので宿を請われたが、福慈の神は、「今日は新嘗(にいなめ)(新穀を神に供え、人も食べる祭)をして家中物忌をしているので、お泊めできません」と申しあげた。このような応待をされた神祖の尊は恨み泣き、「私はお前の親であるぞ。どうして泊めようとしないのだ。お前が住んでいる山は、これからずっと冬も夏も雪や霜が降って、寒さが厳しく、人は登らず、食物も献じないであろう」と呪いの言葉を述べられた。
神祖の尊はさらに筑波の岳にお登りになり、ここでも宿を請われた。すると筑波の神は、「今夜は新嘗をしていますが、神祖の尊のお言葉をお受けしないわけにはまいりますまい」と申しあげ、食物飲物を用意し、尊をうやまいお仕え申しあげた。尊は喜んでお歌いになられた。
愛(は)しきかも我(あ)が胤(みこ) 巍(たか)きかも神宮(かむつみや)
天地(あめつち)の竝斉(むた) 日月(ひつき)と共同(とも)に
人民集(たみくさつど)い賀(ことほ)ぎ 飲食富豊(みけゆきゆたか)に
代々(よよ)に絶ゆることなく 日(ひ)に日(け)に弥栄(いやさか)え
千秋万歳(ちよよろづよ)に 遊楽(たのしびきはま)らじ
こういうわけで、福慈の岳には常に雪が降って登れないのに対して、筑波の岳には人々が登って、歌舞を楽しみ、酒を飲んだり物を食べたりすることが、今に至るまで絶えないのである。
富士山は後に駿河の国の歌枕とされるから、当然駿河の国の風土記でも富士山のことは特筆大書されていたであろう。しかしながら、初めにも述べた五ヶ国を除く他の国々の風土記はまとまった形では伝わっておらず、僅かに諸書に引用された断片的な記述、いわゆる風土記逸文によって、片鱗を窺うことができるにすぎない。富士山については、鎌倉時代に『万葉集』を研究した仙覚(せんがく)の『万葉集注釈』に、真夏の六月半ばに消えても、その日の真夜中にはまた降り積もると『駿河国風土記』にあると、引かれている程度である。
(株式会社文藝春秋刊、文春新書「富士山の文学」より)
