| 38. 「役行者伝説」 信仰の山 |
役(えん)の行者はわが国修験道の開祖と仰がれている伝説的人物である。吉野の金峯山寺蔵王堂の本尊である蔵王権現は、彼が修行中に感得した菩薩であるという。この役の行者は吉野山のみならず、富士山とも深い関り合いを持っている。
彼は『続日本紀』では「役君小角(えんのきみをづの)」と呼ばれている。同書文武天皇三年(六九九)五月二十四日の条には、この役君小角が伊豆国に流されたことを記している。小角は大和国の葛城山に住んで呪術を能くしていたが、それを悪用して「妖惑」したと、一時は弟子だった韓国連広足(からくにのむらじひろたり)に讒言(ざんげん)された結果であった。
伝説では、役の行者(役優婆塞(えんのうばそく)とも)はこの流刑地伊豆で昼はその地に居り、夜は富士山に行って修行したという。その伝説は『日本霊異記』『三宝絵詞』『今昔物語集』『扶桑略記』『袖中抄(ふちゅうしょう)』などに語られている。『日本霊異記』によって、その伝説を述べると、およそ次のようなことになる。
役優婆塞は大和国葛木上郡(現、奈良県御所市)の出身である。幼い頃から聡明で、三宝を信仰し、五色の雲に乗って虚空を飛び、神仙となることを願っていた。四十余歳になってきびしい修行を積み、孔雀の呪法を取得して、自在に鬼神を駆使する験力を獲得した。彼は鬼神等に「金峯山と葛城山(現在の金剛山であるという)の間に橋を渡せ」と命じた。この命令に従うのを嫌がって葛城山の一語主大神(ひとことのぬしのおおかみ(一言主神))が、文武天皇の代、「役優婆塞は天皇の皇位を脅かそうと陰謀を企てている」と託宣の形で讒言した。そこで天皇は役優婆塞を逮捕しようとしたが、験力のために捉えられない。そこで彼の母を捉えた。それを知った彼は進んで捉えられ、伊豆国へ流されたのだが、その時もその身は海上をさながら陸を行くように走り、鳳のように飛んだという。そして配所では、昼は天皇の命に従って島で修行し、夜は「駿河の富岻嶺(ふじのみたけ)」に行って修行するという生活を続けた。その後許されて都近くに帰ったが、遂に仙人となって空を飛び、唐に行ってしまったという。一方、役の行者を讒言した一語主大神は行者に呪縛されたまま、今に至るまで苦しんでいると伝える。
『日本霊異記』では、許されるあたりの叙述は簡略で、わかりにくい。ここは『扶桑略記』の記述を参照すると、そこに富士信仰が認められるのである。
役の行者が伊豆に流されたのち、一言主神はさらに託宣して、行者の死刑を求めた。そこで勅使が伊豆に遣わされ、いよいよ行者を斬ろうとすると、行者は抗うことなく勅使の前にうずくまり、自らを斬る刀を乞い、刀身を三度なめてこれを返し、早く斬れと言った。見ると刀身に文が映っている。それは「富慈明神表文」であった。報告を受けた天皇が博士を召して解読させると、行者は凡夫ではなく、大賢聖である、直ちに死罪を免じて都に迎え、大切にせよという内容であった。その結果、許されて朝廷には尊信されたのだが、讒言した一言主神を怨んで呪力でこれを呪縛し、母ともども唐土へ渡り、かの国の四十人の仙人の第三座とされたという。
飛鳥時代の僧。道昭は、渡唐して玄奘三蔵(『西遊記』の三蔵法師)から法相宗を学び、日本に伝えた高僧である。彼が遣唐副学生となって唐土に渡り、法華経を講じた時、日本語で問う聖人がいた。それが役優婆塞であった。恨みがあるので唐土に渡ったけれども、日本を忘れられず、三年に一度は金峯山、葛城山、「富慈峰」に詣でていると語ったという。
道昭が唐土で行者と逢ったという話は年代的に明らかにおかしい。道昭が入唐したのは白雉四年(六五三)のこと、帰朝したのは斉明天皇七年(六六一)であったという。そして文武四年(七〇〇)に世を去っている。役の行者流罪事件は道昭の帰朝後四十年近くたって起こったことであった。そしておそらく、道昭はその結果も知らぬまま世を去ったであろう。行者の聖性を高めるために道昭は利用されているのである。そしてまた、行者の聖性が富士明神の信仰によって裏付けられていること、富士明神の信仰が葛城山の一言主神の託宣の力を凌いでいることも注目される。富士山は信仰の山だったのである。
(株式会社文藝春秋刊、文春新書「富士山の文学」より)
