「富士山」逸話あれこれ

39. 『万葉集』 歌い継がれる国の鎮め

 

 富士山を詠じたおびただしい数にのぼる詩歌の中で最もよく知られているものは、山部赤人の和歌であろう。そして、その和歌は、

  田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

 という『小倉百人一首』の歌として、人口に膾炙しているのではないだろうか。百人一首の歌は『古今和歌集』以下の勅撰和歌集から選ばれている。この赤人の歌も、『新古今和歌集』巻第六冬歌に「題しらず」として収められているのが、その出所である。『新古今集』は、『万葉集』に載っている、長歌と反歌から成る一組の富士山の歌のうち、反歌だけを切り離し、雪が詠まれているということで、冬の歌という扱いで、巻六に入れたのであった。だから赤人の作品の本来の姿に接するためには、『万葉集』を読まなくてはならない。
 その歌は『万葉集』巻第三に、「雑歌」として収められている(歌番号は『国歌大観』番号)。

   山部宿祢赤人の不尽山を望みし歌一首短歌を并(あは)せたり
  天地(あめつち)の 分れし時ゆ 神(かむ)さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天(あま)の原 振(ふ)り放(さ)け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は   (三一七)
   反歌
  田子の浦ゆうち出でて見ればま白にそ富士の高嶺に雪は降りける   (三一八)

 天地開闢以来、天空高くそそり立つ、霊性を備えた崇高な山として、富士山をたたえた歌である。「時じくそ雪は降りける」というのは、時の区別なく、つまり季節にかかわらず、雪は降っているということだから、その反歌を冬の歌とすることは、作者の意図とは違うことになる。
 反歌の初句「田子の浦ゆ」も、たった助詞一つの違いではあるが、『新古今集』での「田子の浦に」とは大違いである。「田子の浦を通って」とか「田子の浦から」などと解されている。田子の浦は現在も静岡県富士市南部の地名として存在するが、赤人の時代の田子の浦は現在のように富士川の東側ではなく、川の西側で、標高九〇メートルの薩埵峠の麓から倉沢、由比、蒲原、岩淵あたりまでの海岸であったという。それで、「田子の浦ゆうち出でて見れば」という上句は、薩埵峠を越えて現在の西倉沢の南に出てきた時に、いきなり目に飛び込んできた富士山の大きな山容を仰ぎ見た感動の表現であるといわれる。
 「ま白にそ富士の高嶺に雪は降りける 」という下句も『新古今集』での形とはひどく異なる。「白妙の」は「富士」に掛かる枕詞であるが、「ま白にそ」は文字通り、真白にの意で、雪が降り積もっている形容を具体的、視覚的に表現していることになる。真白に雪を戴く富士山の姿を捉えているのは、やはり『万葉集の反歌』である。 この歌の作者山部赤人は、『古今集』の序文で柿本人麻呂とともに歌の聖とたたえられたことから、二聖の一人とされ、三十六歌仙にも数えられるのであるが、詳しい伝記はほとんどわかっていない。『万葉集』によって詠まれた年次の知れる最初の赤人の歌は神亀元年(七二四)十月五日、聖武天皇が紀伊国に行幸した際に従って、若の浦で詠んだ長歌と反歌二首で、

  若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る   (九一九)

 という名歌は、その時の作であった。そして、集中で彼の活動を伝える最後の作は天平八年(七三六)六月、やはり聖武天皇が大和の芳野離宮に行幸した際に命ぜられて詠んだ長歌と反歌である。以後の動静は一切わからない。だから、八世紀前半、聖武天皇の時代にしばしば天皇の行幸に従駕して歌を献じた宮廷詩人という程度のことしか知られないのである。しかし、この富士山の歌と同じく、巻三には「葛飾の真間(まま)の娘子(をとめ)の墓に過(よぎ)りし時に、山部宿祢赤人の作りし歌一首」という、葛飾の真間の手児名伝説を詠んだ長歌と反歌二首が収められているので、彼がばる東国に下ってきたことは確かである。あるいはそれも公用の旅であったのだろうか。

『万葉集』巻第三には、この山部赤人の一組の富士山の歌に続いて、さらに長歌一首と短歌二首計三首の歌を揚げている。ただし、その作者を誰とするかについては、研究者の間でも意見の一致を見ていない。問題のその三首を読んでみたい。

   不尽山を詠みし歌一首短歌を并せたり
  なまよみの 甲斐の国 うち破る 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上(のぼ)らず 燃ゆる火を 雪もて消(け)ち 降る雪を 火もて消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも 石花(せ)の海と 名付けてあるも その山の 堤める海そ 富士川と 人の渡るも その山の 水のたぎちそ 日の本の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも   (三一九)
   反歌
  富士の浦に降り置きし雪は六月(みなづき)の
     十五日(もち)に消(け)ぬればその夜降りけり   (三二〇)
  富士の嶺を高み恐(かしこ)み天雲もい行きはばかりたなびくものを   (三二一)
     右の一首は、高橋連虫麻呂(たかはしのむらじむしまろ)の歌の中(うち)に出づ。類を以ってここに載す。

 この長歌は赤人の長歌のほぼ倍の長さで、古代においては活火山であった富士山の姿を相当具体的に伝えている。まず、その地理的位置を甲斐の国(山梨県)と駿河の国(静岡県)と、それぞれの国の中に立っているというのは地理的に正確で、甲斐の国の顔もちゃんと立てていることになる(もっとも、終りの部分では赤人と同じく「駿河なる富士の高嶺」というが、やはり静岡県側から見ているので、こう言ったのであろう))。そして噴火活動を歌い、そこに神の力の働きを考えている。さらに山腹に湛えられた湖である「石花の海」と富士川についても説明する。「石花の海」は「剗海」とも書き、現在の精進湖と西湖に相当する。貞観六年(八六四)の富士山の大爆発によって溶岩流が剗海を精進・西の二湖に分断し、青木ヶ原を創ったと考えられている。富士川は富士山を源流としてはいないから「その山の水のたぎちぞ」という言い方は正確ではないが、富士山周辺の水を集めて流れると見れば、そう見当違いともいえない。そして、日本国を守り鎮める神、国の宝とたたえて終わる。
「富士の高嶺に」の反歌では、真夏にも降雪があることを歌い、「富士の嶺を」の歌ではその高さを強調する。
 この三首の作者の問題というのは、およそ次のようなことである。まず「右の一首は、高橋連虫麻呂の歌の中に出づ」という左注がおしまいの「富士の嶺を」の一首だけについて言っているのか、それとも「なまよみの」という長歌、その反歌「富士の嶺に」をも含め、計三首を一組と見なしてこう言っているのかについて、意見が分かれているのである。次に、「高橋連虫麻呂の歌」というのは、「高橋連虫麻呂歌集」という、『万葉集』編纂の際に資料として用いられた歌集を意味するが、その集中の歌がすべて虫麻呂作ではない可能性もあるので、ここの三首なり一首なりを簡単に虫麻呂の作と言い切れないのである。
 高橋連虫麻呂の伝記も明らかではない。山部赤人と同じく、聖武天皇の天平年間の作歌活動が知られるが、藤原宇合(ふじわらのうまかい)との関係が注目される。天平四年(七三二)八月、宇合が西海道の節度使として派遣された時、虫麻呂は壮行を激励する長歌と反歌を詠んでいる。この宇合は養老三年(七一九)常陸守に任ぜられ、常陸国に下っているが、虫麻呂も宇合の部下として従っていて、「高橋連虫麻呂歌集」に見えるとされる常陸や下総の歌をその時の作とすれば、養老年間から歌人活動をしていたことになる。しかし、虫麻呂歌集の常陸関係の作品の詠まれた年代をもっと下げて考える立場もある。

『万葉集』には以上の他に、作者の全くわからない富士山の歌が六首見出される。そのうち二首は巻第一の「寄物陳思(ものによせておもひをのぶ)」の歌群に収められているもので、烈しく燃えさかる恋の思いを富士山の噴火によそえた歌である。

  我妹子(わぎもこ)に逢ふよしをなみ駿河なる富士の高嶺の燃えつつかあらむ   (二六九五)
「好きなあの子に逢うすべがないので、駿河の国の富士の高嶺のように、心の中で燃えているのだろうか」

  妹が名もわが名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつ渡れ
     或る本の歌に曰く、「君が名もわが名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつも居(を)れ」といふ。
「あの子の名もわたしの名も噂になるのが惜しいので、富士の高嶺のように、ただ心の中で燃え続けているのだ」。これに対して、「或る本の歌」は、「あなたの名もわたしの名も……」というので、女性の立場で歌われている。

 六首のうち残りの四首は巻第十四の東歌、東国で民謡として歌われたものの中に収められている。「駿河国の相聞往来歌」として、いずれも富士山の自然を背景に恋心を歌っている。

  天の原富士の柴山木(こ)の暗(くれ)の時ゆつりなば逢はずかもあらむ   (三三五五)
「空にそびえる富士山の麓の柴山の木下闇(こしたやみ)、季節が移ったらあの人とは逢えないだろうか」

 富士山の青木ヶ原樹海はよく知られているが、そしてそれは先にも述べたように『万葉集』成立以後に形成されたものだが、万葉の時代にも山麓には木々が生い茂り、恋人たちの逢ひびきに絶好な場所を提供してくれたのであろう。けれども、その木々が広葉の落葉樹であれば(「柴山」というのは、樹海がそのような落葉樹の多い雑木林であることを意味する)、そういう季節になったら恋しい人と逢えなくなることを危ぶんだ歌であろう。

  富士の嶺(ね)のいや遠長き山路をも妹(いも)がりとへば気(け)によはず来(き)ぬ
「富士山のひどく遠く長い山道でも、あの子のもとへ通うのだから、喘ぎもせずやって来たよ」

「いや遠き山路」とは、富士山麓の長い道のりをいう。富士山と愛鷹山(あしたかやま)の間を通る十里木(じゅうりぎ)越えの道をさすかという説がある。「惚れて通えば千里も一里」というのにも通ずる、恋する男の心である。

  霞ゐる富士の山(やま)びに我(わ)が来なばいづち向きてか妹が嘆かむ
「霞がかかっている富士山のほとりにわたしがやって来たならば、どちらの方角に向かってあの子は嘆くだろうか」
 通っている女と翌朝別れて帰って来る男の心情を歌っているのであろう。女は帰ってゆく男を見送る。けれども高い富士山を隠してたなびく霞は、山麓を行く男の姿をも隠してしまう。女は男を偲ぶよすがが失われて嘆く。そんな女の姿を、見送られる側の男が思い描いた歌と解される。

  さ寝(ぬ)らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと
   或る本に曰く、「まかなしみ寝(ぬ)らくしけらくさ鳴らくは伊豆の高嶺の鳴沢なすよ」といふ。
   一本の歌に曰く、「逢へらくは玉の緒及(し)けや恋ふらくは富士の高嶺に降る雪なすも」といふ。

 この歌はいろいろのヴァリエーションを伴っている。まず、もと歌は、「共寝をするのは玉を貫く緒のような短さ、恋しいことは富士の高嶺の鳴沢のような激しさ」。
「鳴沢」は、富士山西部の大沢崩れをさすかと考えられている。放射状の谷の一つ、大沢は山頂剣ヶ峰の下から始まり、幅約四〇〇メートル、深さ一〇〇メートル、長さは二・一キロ以上に及ぶ。落下する岩石が鳴り響くので、このように名付けられた。 「鳴沢」がこのように富士山の峡谷だとすれば、替え歌の「伊豆の高嶺の鳴沢」というのは、どこか見当がつかない。この歌は「いとしいので共寝をするのはたびたびのこと、世間の噂のやかましさといったら、伊豆の高嶺の鳴沢みたいだよ」の意。伊豆の国で歌われたのであろう。
「一本の歌」は、「恋人と逢ったのは玉の緒も及ばない短かさ、恋しいことは富士の高嶺に降る雪のような深さだよ」の意。「富士の高嶺に降る雪も」という流行歌と、比喩の用い方は異なるが、「富士の高嶺に降る雪」は昔から恋の歌で何かと引き合いにだされてきたのだった。

『万葉集』で富士山が登場する歌は以上である。この集を代表する歌人、柿本人麻呂には富士山を詠んだ歌は見出されない。『柿本集』に見える、

  富士の嶺(ね)の絶えぬ思ひをするからにときはに燃ゆる身とぞなりぬる

 という歌を挙げて、この歌が富士山の火山活動を詠んだ最古の作品らしいと書いてある本を見たが、『柿本集』は平安時代に編まれた集で、集中の歌は人麻呂作とは考えられない作品が多く含まれている。この歌も「東海道十五ヶ国」のうち「駿河」を隠し題として第三句に詠み入れている、一種の言葉遊びの歌で、到底人麻呂の時代の作とは考えられない。

(株式会社文藝春秋刊、文春新書「富士山の文学」より)

 

 

 

自由に検索 → 
「リンク(参照先)など」

「出版社名」 「書名」
します。



富士山逸話あれこれを