「富士山」逸話あれこれ

40. 都良香の「富士山記」 火山活動の情報

 

 すぐれた詩や歌に接すると、それはとうてい人間の作れるものではない、神か鬼か、超越的な存在の所為に違いないと考える傾向が、古人には認められる。都良香(みやこのよしか)という詩人もそのような伝承の持ち主である。すなわち、『和漢朗詠集』に採られている、「三千世界(さんぜんせかい)は眼(まなこ)の前(まへ)に盡(つ)きぬ、十二因縁(じふにいんえん)は心の(こころ)の裏(うら)に空(むな)し」という対句は、彼が竹生島に詣でて詠じたものであるが、初めの句を得て、その後をどう続けようかと考えあぐんでいたら、島の神である弁財天のお告げがあって、後の七字を続けることができたと伝えられる。同じく『和漢朗詠集』に載る、「気霽(きは)れては風新柳(かぜしんりう)の髪を梳(けづ)る、氷消(こほりき)えては浪舊苔(なみくたい)の鬚(ひげ)を洗(あら)ふ」という彼の詩句も、ある人が月夜に羅城門(羅生門)を通りながらこの句を朗詠すると、楼の上で何者かが、「あはれ(ああ、すばらしい)」と言ったと伝えられるが、時代が下ると、門を過ぎた人は良香その人で、彼は「気霽れては・・・・・・」の句を詠じただけで、後半の「氷消えては・・・・・・」という句は楼門の上に棲んでいた鬼が付けたものであるという話になってゆく良香は、平安時代の漢学者・漢詩人、歌人として名の高い大江匡房(おおえのまさふさ)が「文章(もんじょう)の天才」と絶賛する名刺人・文章家なので、このような逸話が生まれたのである。
 この良香は承和元年(八三四)に生まれ、元慶三年(八七九)、四十六歳で没している。文章博士とされた。彼が書いた「富士山記」という漢文が「本朝文粹(ほんちょうもんずい)」巻第十二に収められている。

  富士山は駿河国に在り。峯削り成せるが如く、直(ただ)に聳えて天に属(つづ)く。

 と書き出され、その高いこと、大きいこと、麓の広大なことを述べる。次いで、承和年間(八三四-八四八)に峰から小さな孔のある珠玉が落ちてきたが、これは仙人の簾に貫かれていた珠であろう、また貞観十七年(八七五)十一月五日、山の祭りを催したところ、白衣の美女二人が山頂に並んで舞ったという古老の伝えがあるなどと語り、神仙の集まり遊ぶ場所という。  さらに、「山を富士と名づくるは、都の名に取れるなり。山に神有り、浅間大神と名づく」と述べ、山頂には「神(あや)しき池」があること、池中の大石から常に蒸気が立ち昇っていること、遠くから望むと常に「煙火」が見えること、春夏も積雪が消えないこと、中腹以上は白砂が流れ下るので頂上まで登れないこと、昔「役の居士」(役の行者)が登ったと伝えられること、山腹に泉があって、流れ出る水が大河となっていることなどを述べ、最後に延暦二十一年(八〇二)三月、十日ほど雲霧が立ちこめたのち、山の東側の平地に小山ができたのを土地の者は「新山」と言うと、噴火があったことを語り、「蓋し神の造れるならむ」と結んでいる。
 富士山の地形や伝承を語って、行き届いた文章で、当時の火山活動を伝える資料としても貴重な記述である。

(株式会社文藝春秋刊、文春新書「富士山の文学」より)

 

 

 

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