| 41. 『古今和歌集』 燃ゆる思いは噴火の煙 |
「富士山記」の作者都良香が四十六歳で世を去ったのは陽成天皇の元慶三年(八九七)のことである。『三代実録』は彼について、身体は軽く、筋肉が強かった、史伝に精通し、文才にすぐれていたが、貧乏で財産はなかったと記している。
その翌年の元慶四年五月二十八日には在原業平が五十六歳でなくなっている。彼についての『三代実録』の「業平体貌閑麗。放縦レ不拘。略二無才一学。善二作倭一歌」(いい男で行動は勝手きまま、余り漢学の才はないが和歌を上手に詠む)という批評はよく知られている。没後、その「放縦不拘」と評された行動や巧みな和歌のゆえに伝説化が進み、ついに『伊勢物語』の主人公のような存在となるのだが、それらのことは後まわしにして、少し宮廷周辺の歴史を追ってみたい。
元慶七年十一月十日、宮廷の奥深くでいまわしい事件が起こった。殿上に侍していた廷臣の源益が「格殺」(撲り殺すこと)されたというのである。この事件は伏せられていて、一般には知られなかったが、内裏に死穢があったということで、諸々の祭礼は停止された。殺された益は嵯峨天皇の曾孫に当たる。陽成天皇の乳母紀朝臣全子の子、すなわち天皇と乳兄弟だった。
『三代実記』や『日本紀略』のこのような記述から想像されることは、陽成天皇がこの事件に深く関わっているのではないかという疑惑である。これらの記述のすぐあとには、天皇が乗馬を好み、禁中で秘かに馬を飼い、その飼育係りや馬術を好む者などを身辺に近づけていたが、彼等の不法な行為が甚だ多かったので、そのことを聞いた太政大臣藤原基経は急遽(きゅうきょ)参内して、彼等を宮中から追放したということが記されている。これらの記事によって帝王としては常軌を逸している陽成天皇の風貌が浮かび上がってくる。そして元慶八年二月四日、天皇は病のゆえを以って仁明天皇の息子時康親王、すなわち光孝天皇に譲位した。時に陽成天皇はまだ十七歳であった。一方、新帝はすでに五十五歳になっていた。そして三年後には崩じ、皇位は皇太子定省(さだみ)親王、すなわち宇多天皇が継承する。それに対して、病が理由で退位した陽成院は天暦三年(九四九)、八十二歳でなくなるまで、光孝、宇多、醍醐、朱雀、村上と、五代にわたって健在であった。病のために退位したというのは表向きのことで、実際は基経が廃立を断行したのである。彼が光孝天皇を擁立した際には、左大臣であった源融(嵯峨天皇の皇子)が皇位を望んで、「近き皇胤を尋ねば、融らも侍るは」と言い出したのを、基経が、皇胤であっても一旦姓を賜って臣下になった人は即位できないと言って沮止したという話が、『大鏡』に伝えられている。
光孝天皇は践祚した翌年の仁和元年(八八五)十二月十八日、仁寿殿において僧正遍昭のために七十の賀の祝宴を催している。この遍昭も、初めに名を挙げた業平も、また光孝天皇・融も、さらに陽成院も、皆『小倉百人一首』の作者である。そして『百人一首』の彼等の歌は、『後撰和歌集』を出典とする陽成院を除いて、すべて『古今和歌集』から採られている。
遍昭・業平や小野小町・文屋康秀・大友黒主・喜撰法師などの六歌仙、また融や業平の兄行平などが一時代の歌人として顧みられるようになった醍醐天皇の延喜五年(九〇五)四月十八日、紀友則・紀貫之・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑の四人が勅を奉じて撰進したのが、最初の勅撰和歌集、『古今和歌集』であった。
『古今集』には富士山を詠み入れた歌が五首見出されるが、すべて火山としての富士山を歌う。
題しらず 読人しらず
人しれぬ思ひをつねにするがなる富士の山こそわが身なりけれ (恋一)
人に知られない恋の思い、その思いの火のためにいつも燃えている、駿河の国にある富士の山こそは、このわたしなのだったよと、恋にこがれている自身を富士山になぞらえた。「思ひ」に「火」を掛け、「つねにす」から「駿河なる」と続けたのが和歌としての表現技巧である。
題しらず 藤原忠行
君といへば見まれ見ずまれ富士の嶺のめづらしげなく燃ゆるわが恋 (恋四)
あなたのことといったら、逢い見ようが逢い見ないでいようがどっちにせよ、富士山がとくに珍しくもなく燃えるように、燃えるわたしの恋よ。「恋(こひ)」に「火」を掛け、「燃ゆる」の縁語となっている。作者藤原忠行は遠江守になっているから、富士山に望み見たこともあったかもしれない。紀友則と交際があった。延喜六年に没している。
題しらず 読人しらず
逢ふことの まれなる色に 思ひそめ わが身はつねに 天雲の 晴るる時なく 富士の嶺の 燃えつつとはに 思へども 逢ふことかたし・・・・・・・ (雑体・短歌)
恋の長歌(『古今集』では長歌を「短歌」という部立の下に収めている)の初めの部分である。「富士の嶺の」の句は「燃え」というための序詞として用いられている。
古歌たてまつりし時の目録の、その長歌 貫之
・・・・・・君をのみ 千代にと祝ふ 世の人の 思ひするがの 富士の嶺の 燃ゆる思ひも・・・・・・
これは『古今集』全体の構成を呼んだ長歌で、抜き出した箇所は賀歌の部について述べているものである。ここでも富士山は燃えている。
題しらず 紀乳母
富士の嶺のならぬ思ひに燃えば燃え神だに消(け)たぬむなしけぶりを (雑体・俳諧歌)
この歌でも富士山は(成就しない恋の思ひに)燃えて、神すら消せない煙をいたずらに立ち昇らせていると歌われている。やはり「思ひ」に「火」を掛け、「燃え」、「けぶり」と縁語を連ねている。「燃えば燃え」というのは「燃えるのならばいっそ燃えてしまえ」という意味で、下の「燃え」は命令形である。誰に対して命令しているのであろうか。この歌は歌物語の『平中物語』では、ある男が、返事はするものの逢おうとはしない女に対して、
われのみや燃えて帰らむ世とともに思ひもならぬ富士の嶺のごと
と言い送ったところ、女が、
富士の嶺のならぬ思ひも燃えば燃えかたみに消(け)たぬむなしけぶりを
と返歌したので、男はさらに、
神よりも君は消たなむたれによりなまなまし身の燃ゆる思ひぞ
と詠み送り、これに対しても女は、
枯れぬ身を燃ゆと聞くともいかがせむ消ちこそ知らね水ならむ身は
と返してきた。こんな具合に歌を詠み交しはしたものの、本当に恋人の間柄になることもなく終ってしまったと語られる歌語り中に見出されるものである。これを参照すれば、一首の状況は、女が「燃えてしまいなさい」と相手の男にきつい言葉を投げかけていることになる。
『後撰和歌集』は、四首のうち最初の歌と最後の歌とを贈答歌として載せている。
題しらず 平定文
われのみや燃えて消えなん世とともに思ひもならぬ富士の嶺のごと
返し 紀乳母
富士の嶺の燃えわたるともいかがせん消ちこそ知らね水ならむ身は (恋二)
この返歌でも紀乳母は「わたしは水ではありませんから、あなたがいくら燃え続けても消すすべは知りません」と突き放している。このように男を巧みにあしらっている紀乳母とは、陽成天皇の乳母、すなわち宮廷内の不祥事で犠牲者となった源益の母紀朝臣全子その人である。
以上で『古今集』に見える富士山を詠んだ歌のすべてを見た。その結果、歌人たちはいずれもこの山を煙を上げている活火山と認識して歌っていることが知られる。ところが、貫之が書いたこの集の仮名序では、「今は富士の山も煙立たずなり、長柄の橋も造るなりと聞く人は、歌にのみぞ心を慰めける」と述べている。『古今集』が撰進された十世紀初め頃には富士山の火山活動も休止していたのであろう。けれども、歌の中ではこれほど「燃ゆ」とか「煙」などと詠まれたことの後代の歌への影響は大きなものがあった。『古今集』が模範的な歌集として尊ばれるにつれて、富士山は暑い胸の思いを表現する際のかっこうの媒体として、以後の歌人たちに歌い継がれてゆくのである。
(株式会社文藝春秋刊、文春新書「富士山の文学」より)
