| 44. 『源氏物語』 遠い国の珍しい山 |
『竹取物語』に始まる作り物語の系列、『伊勢物語』に代表される歌物語の系列を合わせて、物語史上に高くそびえるのが『源氏物語』である。全五十四帖というこの長篇物語に富士山は登場するのであろうか。二つの巻にその名は言及されているのである。
最初の例は「若紫」の巻である。「源氏の中将」は十八歳の春、「わらは病」(おこりのような病気であるという)にかかったので、加持祈祷を受けるために、四、五人の供を連れて北山(鞍馬山あたりをさすかという)に赴く。霊験あらたかな修験僧が山中の岩室に籠っているからである。
祈祷を受けたのち、源氏は高みから京の方を眺望する。
はるかに霞わたりて、四方の梢そこはかとなう煙(けぶ)りわたれるほど、「絵にいとよくも似たるかな。かかる所に住む人、心に思ひ残すことはあらじかし」
絵心のある源氏はすばらしい眺めに、感嘆の声を発する。すると、供の者たちがいう。
「これはいと浅く侍り。人の国などに侍る海山の有様などを御覧ぜせられて侍らば、いかに御絵いみじうまさらせ給はむ。富士の山、なにがしの嶽」など語りきこゆるもあり。また、西国(にしぐに)のおもしろき浦々、磯の上を言ひ続くるもありて、よろづにまぎらはしきこゆ」
「人の国」とは、都人から見ての地方のことである。源氏の供人たちには受領(国司)の子息などもいる。彼等は父親に従って地方生活をした経験もあるので、ほとんど都の外に出たことのない源氏と違って、地方の海や山を見る機会があるのである。そのような「人の国」の山の代表として、「富士の山、なにがしの嶽」が語られる。『源氏物語』での文章の流れからいうと、初めに発言した供人は東国の山々について語り、次いで西国の海岸の話になって、明石の浦、明石の入道の噂になってゆくと読めるので、「なにがしの嶽」は、作者紫式部が浅間の嶽などを念頭に置きながら、あえておぼめかして書いたと解してよいであろう。ともかく、ここでは「人の国」である東国を代表する山として、「富士の山」が言及されていることが確かめられる。東国の代表的な山というのにとどまっていて、日本を代表する山という意識は働いていないようである。
このような供人の言葉もあったけれども、源氏はついに富士山を目にすることはなかった。彼が後年謫居した「人の国」は西国、摂津の須磨や播磨の明石などの浦々であった。
次に『源氏物語』で富士山が引合いに出されるのは、「鈴虫」の巻である。源氏は五十歳、六条院の主で世間的には栄華を極めているが、親子ほど年の違う正妻三宮(兄朱雀院の皇女)と柏木(到仕大臣、昔の頭中将の息子)との間に密通事件が起こり、女三宮は出家、柏木は病死した。それらのことに直面して、源氏は父桐壺院の后藤壺に通じた自身の罪の深さを改めて思い知らされ、世をあじけなく思っている。そのような折、蓮の花咲く盛夏に、尼となった女三宮の持仏の開眼供養が、仏堂にしつらえた六条院内の宮の居所で行われる。源氏はその場に顔を出して、供養に奉仕する女房たちに適切な助言をする。源氏はよく気の付く男性なのである。
火取どもあまたして煙(けぶ)たきまであふぎ散らせば、さし寄り給ひて、「空に焚くはいづくの煙(けぶり)ぞと思ひ分かれぬこそよけれ。富士の峰よりもけにくゆり満ち出でたるは本意(ほい)なきわざなり。講説(かうぜち)のをりは、大方の鳴りを静めて、のどかに物の心も聞き分くべきことなれば、憚りなき衣(きぬ)の音なひ、人のけはひ静めてなんよかるべき」など、例のもの深からぬ若人どもの用意教へ給ふ。
香炉で盛んに焚く香の煙を富士山頂から立ち昇る噴煙になぞらえて、富士の煙をしのぐほど部屋に充満するまで焚くのは感心しないと言っているのである。『古今和歌集』の富士山の歌で確かめたように、平安時代の人々にとって、この山は「思ひに燃え」続け、神すらも消すことのできない煙を空しく立ち昇らせている恋の山と認識されていたのであった。そしてまた、『源氏物語』が書かれ、読まれた時代を代表する歌人で、この物語の読者の一人であったことは疑いない藤原の公任(ふじわらのきんとう)は、「火取の灰」のやりとりに関連して、女房の越後と次のような歌の贈答を行っている。
数ならで埋(うづ)もれたるが思ひにはあたりの灰を山とこそ見れ
返し
埋もるるけはひを見れば人しれず思ひや富士の煙とも立つ (『公任集』)
歌を送ったのは公任から灰を焼いてほしいとあつらえられた女房の越後、「返し」が公任である。二人の歌での「思ひ」には「火」を掛けている。公任の歌での「けはひ」は「気配」に「灰」を掛け、「灰」「火」「煙」、そして「富士」と、縁語関係が作られている。このような和歌表現の型が出来上がっているのであるから、源氏がもうもうと立ち昇る香炉の香煙から「富士の峰」の噴煙を連想したのは極めて自然なことであった。源氏は実際に富士山を見ることはついになかったが、その脳裏には絶えず煙を立ち昇らせている、空高くそびえた山がくっきりと描かれていたのであろう。それは『竹取物語』の絵などによって形作られたイメージであったかもしれないし、作り物の富士山などによって助長されたものであっただろう。
天暦御時、中宮歌合の勝態(かちわざ)に、富士の山、沈(沈香)して作りて、頂より出(いだ)せる煙の下に、内の
御方に
世に人の及びがたきは富士の山ふもとに高き思ひなりけり (『清正集』)
藤原の清正(きよただ)は中納言兼輔(かねすけ)の息子、紫式部の祖父雅正(まさただ)の弟である。村上天皇の時代、中宮安子の周辺でこのような遊びが試みられていたのであった。『拾遺和歌集』にはこれに酷似した歌が村上天皇の作として載っている。
雪で富士山のような高い山を作り、煙を立ち昇らせるという遊びも行われた。
二月に雪のいと高う降りたる、行頼が曹司の前に行きの山をいと高う作りて煙を立てたるに、雪の
いたう降れば、から傘をさしおほいて立てたりければ
東路(あづまぢ)の富士の高根にあらねども三笠の山も煙立ちけり
清正は紀伊国や近江国などの地方官になっているが、東国をどの程度知っていたかはわからない。公任も若い頃は国守に任じられているが、おそらく実際には赴任せず、東国に下った体験は持ち合わせていないであろう。それでも、彼等が思い描く富士山は煙を吐き続ける高い火の山であった。『源氏物語』の作者紫式部にとっても、それは同じであったと思われる。
(株式会社文藝春秋刊、文春新書「富士山の文学」より)
