「富士山」逸話あれこれ

45. 『更級日記』 地元の信仰と奇譚

 

 「東路の道のはて」とされる常陸の国よりもなお奥とされていた上総国に育って、早く京に上って『源氏物語』を詠みたいと念願していた少女が、『更級日記』の作者菅原孝標女(たかすえのむすめ)である。父の孝標は道真から数えて五代目に当たる。その父が上総介だったので(上総は親王の任国なので、守は太守と呼ばれ、親王が任ぜられるが、実際に国務を司るもは介であるから、実質的には上総介は上総守に等しい)、彼女は鳥が鳴く東(あずま)で少女となり、姉や「まま母」などが語る『源氏物語』をはじめとする物語の数々に、夢をふくらませていたのであった。夢が叶って任期満ちた父と共に上京の途に就いたのは彼女が十三歳になった寛仁四年(一〇二〇)の秋の末、九月三日のことであった。現在よりもはるかに内陸部に入り込んでいたであろう東京湾にほぼ沿う形で、上総から下総・武蔵・相模と旅を続け、隅田川を渡り、竹芝・もろこしが原を過ぎ、足柄山を越えて、いよいよ駿河国に入ったのは十月の初めころだっただろうか(大磯の西あたりとされるもろこしが原を九月末に過ぎている)。彼女たちの一行は、ここで富士山を仰ぐ。

   富士山はこの国なり。わが生ひ出でし国にては、西面(おもて)に見えし山なり。その山のさま、
  いと世に見えぬさまなり。さまことなる山の姿の、紺青(こんじゃう)を塗りたるやうなるに、雪の消ゆる
  世もなく積もりたれば、色濃き衣(きぬ)に白き衵(あこめ)着たらむやうに見えて、山の頂の少し平らぎたるより煙(けぶり)は立ち昇る。夕暮れは火の燃え立つも見ゆ。

 上総で育った彼女にとって、富士山は初めて見る山ではなかった。遠く西の方に群山にぬきん出て聳えるのを見てきた山であった。しかし、その山を初めてま近に仰いだ時の印象が、この文章である。鮮やかな青の衣の上に、やや丈の短い白の衵(本来は上着と下着の間に着るもの)を着た、いわゆる衵姿の女性になぞらえているのである。「山の頂の少し平らぎたる」という叙述は、富士山の山容が現在我々の見ているのとさほど変わっていないことを物語っているが、そこから煙が立ち登っていて、暗くなると火焰が燃え立っていたという証言は、この頃の富士山の活発な火山活動を物語っていて、貴重である。
 この先で、富士川を渡った時のこととして、川上から翌年任官される諸国の国司の名を書いた黄色い紙が流れてきたという、土地の人の話を聞いて、書き付けている。

  富士河といふは、富士の山より落ちたる水なり。その国の人の出でて語るやう、「一年(ひととせ)ごろ、ものにまかりたりしに、いと暑かりしかば、この水の面(つら)に休みつつ見れば、河上の方より黄なる物流れ来て、物に付きてとどまりたるを見れば、反故(ほく)なり。取り上げて見れば、黄なる紙に、丹(に)して、濃くうるはしく書かれたり。怪しくて見れば、来年なるべき国どもを、除目(ぢもく 官吏任命の目録)のごとみな書きて、この国(駿河)来年空(あ)くべきにも、守(かみ)なして(国司を任命して)、また添えて、二人をなしたり。怪し、あさましと思ひて、取り上げて、乾して収めたりしを、返る年の司召(つかさめし 地方官の任命ならば「県召(あがためし)」というべきだが、ここでは官吏の人事を総称していう)に、この文に書かれたりし、一つ違(たが)はず、この国の守とありしままなるを、三月(みつき)のうちになくなりて、またなり代りたるも、この傍(かたはら)に書き付けられたりし人なり。かかることなむありし。来年の司召などは、今年この山にそこばくの(たくさんの)神々集まりて、ない給ふなりけりと見給ふなりけりと見給へし。めづらかなることにさぶらふ」と語る。

 受領の一行と見て、彼等にとって最大の関心事に違いない人事にまつわる奇譚を土地の者がわざわざ語って聞かせたのであろう。そして孝標女も親や姉などと共に聞き耳を立てて聞いたのであろうが、真偽のほどはともあれ、富士山は多くの神々の集う神秘な山であるという信仰に近い観念が、土地の人々によって信奉されていたことを証するものではある。

(株式会社文藝春秋刊、文春新書「富士山の文学」より)

 

 

 

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