| 46. 朝鮮通信使と富士山 |
秀吉の明国征服を最終目標とした文禄・慶長の役は、朝鮮全土を荒廃させ莫大な人命と文化遺産の損失という悲劇的な結末をもって終焉(しゅうえん)を迎えた。後を継いで日本の支配者となった徳川家康は、朝鮮との和睦(わぼく)を推進し、仲介役となった対馬藩の身を削るような努力の末、平和条約を結ぶための使節団が朝鮮から派遣されることになる。慶長十二年(一六〇七)のことであり、すでに江戸幕府が成立した後であるので、使節団は江戸まで東海道を旅して将軍秀忠(ひでただ)に会見する。当然のことながら、江戸に向かう途中で清見寺に立ち寄り、また富士山の絶景に接してこれを記録に残すことになるのである。
室町時代にも李氏(りし)朝鮮からはしばしば使節が日本に派遣されているが、交渉相手は足利将軍であったので、京都までという旅が基本であった。したがって、室町時代の朝鮮使節は富士山を実際に目にする機会はなかったのである。
外国人で富士山を目にした、ということであれば、鎌倉時代に来日して鎌倉の健長寺(けんちょうじ)などに住した蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)、無学祖元(むがくそげん)、一山一寧(いっさんいちねい)らを挙げることができる。特に無学祖元(一二二六~八六)は、彼について来日した弟子の賢宗が富士山が最も雄大に望まれる原(はら)に徳源寺(とくげんじ)という寺を開いているので、ここで富士山を嘆賞したことは、まず確実であろう。また元寇のあとに、最初は元の使節として来日した一山一寧(一二四七~一三一七)は、鎌倉幕府から疑われて、伊豆松崎にとどめられていた時期があるが、伊豆松崎の海岸からは駿河湾を越えて富士山を美しく望むことができる。さらに鎌倉の建長寺や円覚寺(えんがくじ)の裏山の高いところからは、当然ながら富士を美しく遠望できる場所がいくらもあるから、こうした中国人僧侶が富士山の景勝を嘆賞したことは確かであろう。しかし、彼らの詩文に富士山を記したものがなく、またこれらの中国人僧侶は日本で泣くなって故郷に戻ることがなかったので、富士山について故国の人々に語るという機会もなかったのである。
こうした点では、朝鮮通信使が書き残した日本に関する記録は、次に通信使が来るときには、参考として詠まれるものであり、たとえば富士山について、それまでの通信使の記述にない情報を得たら、書いておく、というかたちで「情報の蓄積」が可能になる点が、単発的な富士山の観察とは異なっている。さらに、朝鮮通信使に選ばれた上位の面々は、みな漢詩文をよくする文人と言ってよい人々であったから、監視の好個の題材として富士山が数多く読まれることになる。特に中国では名山を崇拝する伝統があるから、そのような山を漢詩に詠むということが、文学の一つのかたちとして存在する。
ところで、富士山は中国の名山とは全く似たところのない形状をした火山であるから、ますます富士山に対する興味が湧(わ)くことになる。また漢詩文の中で文学的素質の豊かな人々によって数多くの富士山に関する漢詩が詠まれることになるのである。
(中央公論新社刊「富士山ー聖と美の山」中公新書より)
