「富士山」逸話あれこれ

47. 初期の通信使による富士山の記述

 

 その朝鮮通信使の最初の富士山に関する記述を少し詳しく見てみよう。慶長十二年(一六〇七)、朝鮮通信使は、富士川に掛けられた船橋を渡って、富士山の全容を仰ぐことになる。
東海道は江戸時代、軍事上の理由から大河には橋は掛けられず、この富士川も渡船で渡るのが普通であった。船を連ねてその上を通行する船橋は大名でもできないことで、江戸幕府が朝鮮通信使を特別に勇退したことの表れである。
 さて、その富士山の記述にはこう言う。

   富士山は、河(富士川)の北にあり、すなわち一国の宗となる山岳である。形はちょうど甑を逆さまに伏せたようであり、山の中腹以上は積雪が深さ一丈もあって、まったく冬の最中のようである。これを望めば銀の山、玉の峰であり、高く聳えて雲、霞の重なるその上に出ている。

 ともあれ、堂々たる名山、一国の鎮めともなる中心の山であり、銀の山、玉の峰であると讃えている。
 これは使節が実際に富士山を実見して書いた記述であるが、日本人から聞いた話として、この雪は旧暦七月(太陽暦の八月)には消えるが、旧暦十月になれば早くもまた積雪があるという。頂上は平らで、周囲は十里(朝鮮里、四キロ弱)ほどであり、噴火口の中には大きな池があり、深さは計り知れないという。また富士山を囲む地域は径百五十キロにも及び、駿河、信濃、甲斐、上野(こうずけ)、伊豆等の国境になっているとするのは、日本人からの説明の通訳が悪かったかで、多少記述が不正確である。富士山が見える地域、したがって富士信仰も盛んな地域とどこかで、話が食い違ったのだろう。
 ここで興味深いのは、この記述では富士山の噴煙のことが全く記されていないことである。
 クラセの『日本西教史』の記述では、同じ一六〇七年のこととして、富士山の噴煙はちょうどつむじ風のようである、と記している。駿河にはかなりの数のキリシタンが家康の禁教令(一六一二)までおり、協会も二つあった。当然、西洋人の宣教師の往来も相当あったので、富士山の噴煙の記事は信じてよいであろう。一方、朝鮮通信使の記録も実録風の堅実なものであって、他の記述の精度からして、噴煙を実際に見ていれば、書かないということは考えられない。ということは、当時の富士山は噴煙をつむじ風のようにかなりの勢いで出しているときと、煙を出さずに静かにしているときが、交替してあったのだ、ということになる。先の伝秀吉着用の陣羽織では、富士山の噴煙が描かれているが、これも陣羽織の制作時期はクラセの噴煙の記述の十年前、あるいは二十年ほどまえのことであって、このときも噴煙を上げるような富士山の火山活動があったと考えてよいであろう。
 朝鮮通信使は、初夏の日本の蒸し暑い気候にかなり悩まされながら旅をしてきたという感覚を持っていたようで、富士山周辺の気候が冷涼なことを特筆して書いている。富士川の水は富士山が水源なので、水が冷たくて渡ろうとする人は冷たさに堪えられないという。日本では、国の風習として旧暦六月一日に氷を食べるが、一番暑いときで、そのとき、氷があるのは富士山だけで、運送する間にどんどん溶けてしまうので、これを食べられるのは、天皇と関白(この場合徳川家康)だけである。さらに付け加えて六月一日に氷を食べられない人は、十二月一日に餅(もち)を作って食べて、六月に氷を食べるかわりだと言うのだという。日本側で接待に当たった人が面白おかしく富士川の氷をめぐる風習を物語ったと見えて、氷の話が富士山の記述に匹敵するほど詳しくなっている。
 このときの使節団は、徳川幕府との外交交渉、悲惨な文禄・慶長の役の戦争のあとの、今日風に言えば平和条約締結という大きな役割を持っていたのであり、それとあわせて戦争中に拉致された朝鮮人の送還もまた、大きな外交問題であった。駿河に到着して、朝鮮使節は最初の目的通り家康に国書(国王の親書)を渡そうとするのだが、家康はすでに秀忠に将軍の位を譲って、自分は隠居しているから、江戸まで行って秀忠将軍に国書を渡すようにと言って、会おうとしない。使節団としては相当困った状況にあったときではあるのだが、富士山の絶景に接してやはり記録にとどめておかなければ、と思ったのである。
 家康は、使節が江戸から戻ってくると会見しているので、おそらくこれはちょっと頼りない息子の新将軍の権威を天下に見せつけるために、わざと自分は秀忠のあとに朝鮮使節と会見することにしたものと思われるのだが、使節たちはソウルの朝廷から国書を日本の第一の権力者である家康に伝達せよとの命令と異なることになるので、困惑していたのである。
 そうしたわけで、あるいはもっと道中が穏やかなものであったなら、朝鮮使節もより富士山の風光を楽しめただろうに、というのが江戸時代最初の朝鮮通信使の富士山に関する記述の背景なのである。
 日本と朝鮮との平和友好がこの後長く続くにつれ、朝鮮通信使の外交目標は、厳しい政治的な交渉から、文化交流中心の友好親善に変わっていく。そうなると、富士山を観(み)る朝鮮使節も観光の気分が横溢(おういつ)してくるのである。富士山に関する朝鮮通信使の最初の記述は、地理学的な、学問的な記述という趣もあって、多少硬い印象を受ける。

(中央公論新社刊「富士山ー聖と美の山」中公新書より)

 

 

 

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