「富士山」逸話あれこれ

48. 家光時代の通信使の描く富士山

 

 次の将軍、家光(いえみつ)のときには朝鮮通信使が三回も訪れている。最初期の朝鮮使節は捕虜送還といった具体的な外交交渉事項を持っていたが、家光のときには必ずしもそういうことは言えない。ただ、家光政権の時代は大名の改易をしばしば行って中央集権体制を強化し、また壮大な日光東照宮建造に象徴されるように、将軍権力を誇示して、諸大名をいわば恐れ入らせようという動きが顕著であった。そのため、朝鮮から使節がわざわざ江戸の将軍のもとまでやってくること自体が徳川将軍の威光を輝かす行事である、という考え方のもとに、たびたび朝鮮から使節を送るように日本側から要請する、という事情があった。
 他方、朝鮮としては、大船を建造するなど費用もかさむ通信使ではあったが、北方の女真(じょしん)族が後金を建国して次第に朝鮮を圧迫するようになっていた、また後金からさらに清(しん)と名前を変えて、ついに一六三六年に朝鮮に大軍を送って、結局翌年、朝鮮を服属させる。家光時代の二度目の通信使は、まさしくこの一六三六年(寛永(かんえい)十三年)に日本を訪問している。朝鮮側は相当に多難な時代であったが、日本はむしろこれから長い徳川の平和の基礎が築かれようとしていた時期であって、日本旅行中の朝鮮使節も、初期の家康、秀忠を訪問した頃よりも、よほど余裕を持って日本を観察したふうがあるし、富士山を見る朝鮮文人の態度にもそれはうかがわれる。
 将軍家光が将軍の位を継いだことを祝賀するために派遣された、寛永十三年(一六三六)の朝鮮通信使の富士山を描く有様は次のようなものである。今回は清見寺のある海辺に山が迫った地点の波が凄かったことを記したすぐ後に、富士山の姿を描いている。

   それから、東に向かって富士山を過ぎた。山は大きな原野の中にあり、三国の境に雄大な姿で盤居(ばんきょ)している。切り立ったさまで屹立し、突兀(とつこつ)として空の半分を占める。白雲が常に中腹の下に起こり、空に浮かんで天を覆う。

 この『槎上録(さじょうろく)』を記した使節団のナンバーツーである副使の金世濂は、この文章でもわかるとおり、文学的な、漢文的な誇張された表現に興味のある人物だったようだ。そうした人物がこのたびの通信使の文事を取りしきっていたのだから、富士山に関する漢詩が紀行文に加えて載せられているのも、当然であろう。他の景物が大抵一首だけであるのに、富士山の詩は、実に七首を数え、このときの漢詩の中でも突出している。それだけ、富士山は日本の風景の中でも紀和だったものである、という認識が朝鮮の文人の側にもあったのである。
 ところで、家光の時代になると朝鮮通信使の応対に、林羅山(はやしらざん 一六〇五~九一)が登場してくる。それまでの秀吉から家康に引き続いて、漢文をよくする外交僧として活動した西笑承兌(せいしょうじょうだい 一五四八~一六〇七)や、家光の初期まで活躍する金地院崇伝(こんちいんすうでん 一五六九~一六三三)などの禅僧ではなく、儒教を自分の学問とする朱子学(しゅしがく)者が、日本の外交の場に登場してくる。羅山は、自分の前に幕府に用いられた禅僧たちに対して。朱子学を奉ずるものの優位を手っ取り早く示さねばならない立場にあり、また、博識を誇って人を学識で圧倒しようとする性格も手伝って、朝鮮通信使に大して様々な論争を吹きかけるなど、いささか攻撃的なところがあった。また、自身の威光を天下に輝かせたい願望を持つ家光に、通信使に対して文事においても日本が優越していることを、示さねばならない立場にあった。
 そうした日本の朝鮮に対する優越を示したくてうずうずしている羅山には、先方で嘆賞してやまない富士山は、またとない材料であると思われたらしい。羅山は、富士山を詠んだ日本人による漢詩を集めてまとめているが、富士山を題材にした漢詩を好んで作る朝鮮通信使に対して、日本にだって負けない富士山題詠の漢詩が昔からあるんだぞ、と示したかったのであろう。

(中央公論新社刊「富士山ー聖と美の山」中公新書より)

 

 

 

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