| 50. 葛飾北斎における富士山 |
南画の画家たちは、自分たちの表現こそが芸術的な富士山の表現である、と自身を持っていたであろう。同時代に明らかに彼らに挑戦的な富士山の絵を描いていた司馬江漢の技法を学ぼうといった考えは、どこにもなかった。司馬江漢は、自分の絵画の中にオランダ文字で「最も独特な日本人」と自称していた。要するに伝統的な大和絵、漢画の流派から見れば、司馬江漢は単なる物珍しい西洋風を売り物にするだけの変人、貴人に過ぎなかったのだ。
それに対して浮世絵師たちは、司馬江漢の新奇な西洋画にも注目し、その技法を自分なりに利用しようとする態度があったようだ。西洋画の技法の特徴である遠近法も、浮世絵師はいち早く取り入れていく。多色刷りに特徴のある版画、浮世絵は、しかし司馬江漢のような、段階的な青の変化を用いるより、色彩の対照に多く興味を見いだしたようである。かって虎関師錬が漢詩で描いたような、金色や紫色や赤の富士、色彩の対照鮮やかな富士である。
ここで浮世絵の画家たち、特に北斎と広重がいかにその意匠と技術を尽くして、当時最も人気のある画題であった富士を描いていったかを細かく語る紙面の余裕はない。しかし、特に葛飾北斎(一七六〇~一八四九)の「富嶽三十六景」(一八三一頃)の多くが、働く庶民とともに描かれていることは、こうした富士山を描く浮世絵の享受者と、富士講によって富士登山を一生の念願としている江戸の庶民たちとが重なる部分があったということは、指摘してよいかと思われる。
いくつかを作品に即して示してみよう。遠く西の空に江戸城の楼閣よりも高く姿を見せる富士の描かれる「江戸日本橋」では、端を行き交う荷を満載した荷車、荷を背負った者、そうして蔵屋敷の立ち並ぶ掘り割りには荷物を運ぶ舟の姿が幾隻も浮かんでいる。「武陽佃島(ぶようつくだしま)」では、荷を運ぶ舟と船頭たちが主役である。「本所立川(ほんじょたてかわ)」では様々な形の材木の置かれた中で職人たちが鋸(のこぎり)を手に働いている。富士山は、細長い材木の影に隠れるように、小さいがしかし鋭く遠くに聳えている。「深川(ふかがわ)万年橋下」では、丸く高い橋の下に富士が小さくのぞいている、その橋を大きくとった奇想がポイントであろうが、橋を通り抜けようとしている舟も荷物を運んでいるし、橋を渡る人たちも、下の舟を見物する暇人もいるが、荷物を持ってなにやら仕事の途中らしい通行人が多いようである。
ともあれ、「富嶽三十六景」中の傑作として知られる、巨大な波が人々を乗せた小舟を翻弄(ほんろう)し、大きく盛り上がって崩れんとする波の下に、遠く小さく富士山の望まれる「神奈川沖浪裏」が、画家ゴッホによって賞賛され、さらにドビュッシーが交響詩「海」の楽譜を出版したさいにその表紙の図柄に用いられたように、北斎の「富嶽三十六景」が絵画に描かれた富士山として、世界的な名声を博することにもなったことは、よく知られている。
北斎晩年の肉筆による「富士越の龍」は、手前には山水画風の怪しげな山塊があり、その上には薄い黒雲ももやっている。その向こうには異様に鋭く聳える雪に覆われた富士山があり、その裏側に黒雲がわき上がっており、黒雲の中に一匹の龍が天に向かって昇っていくのが認められる。黒雲と龍の組み合わせに得体の知れない不気味さがあり、大名、松浦静山が富士講の大隆盛に不気味な叛乱(はんらん)の気配を感じ取っていたことを、どうしても連想させる。
あまり政治的にこうした絵画を解釈すべきではないであろうが、しかし、今まで見てきたように、江戸時代後期の富士山は、美しい景物でもあったが、一方では「反権力」の胎動をも象徴するものであったことも、無視してはならないだろう。この一種異様な動乱の予感を含んだ北斎の「富士越の龍」が、嘉永二年(一八四九)という幕末の動乱の時代の直前に描かれたことは、印象的である。もっとも、北斎自身はこの絵を描いた同じ年、わずか三ヶ月後に没しているから、昇天していく龍を北斎自身に擬する解読も、たしかに成り立つであろう。
富士山は神聖、超越的な存在であるがそれでも地上の存在である。ときにはかなり政治的にきな臭い象徴物にも擬せられた。そんな地上の世界からなお超越した世界、それは彼岸でしかないであろう。この北斎最後の富士山をよくよく見なおすと、富士山はやはり超然として動かざるものの如く静まりかえっている。
(中央公論新社刊「富士山ー聖と美の山」中公新書より)
