| 51. オールコックの富士登山 |
北斎が没してわずか四年後の、年号も変わらない嘉永の六年、一八五三年にはマシュー・ペリー提督の率いる四隻の「黒船」、鉄製の蒸気船が浦賀(うらが)にやってくる。結果は翌一八五四年の日米和親条約の締結である。長崎出島(でじま)のオランダ人以外、西洋のキリスト教徒は日本国内に居住することができない、という、いわゆる鎖国の制度がこれで崩壊する。これに続いて西洋列強は同様の条約を日本と結ぶことになり、当時世界最強の国家であった大英帝国は、一八五四年(安政五年)、江戸幕府と日英修交通商条約を結んだ。
正式の外交関係が結ばれて、翌一八五九年、イギリス公使館が江戸に開設されることになる。その初代イギリス公使に任命されたのが、中国での外交官としての経歴のあるオールコック(一八〇九~九七)であった。このオールコックは、今までケンペルや、シーボルトによって紹介されていたこの極東の島国の高山に登山することを企てる。オールコックはもともと外科医であって、指がリューマチのために動かなくなってしまったことをきっかけに、外科医を断念して外交官になった人物であったため、自然科学に対する素養と興味があった。日本公使として在任中の出来事を詳細に記した『大君(たいくん)の都』(一八六三)の著者としても知られている。
ところで、長崎で塾を開いて西洋の自然科学を日本人の弟子たちに教えたドイツ人医師フランツ・フォン・シーボルト(一七九六~一八六八)は、自然地理学上の一つの驚異である富士山に当然興味を持っていた。自然科学の様々な測定機器が、「化学の世紀」と呼ばれた十九世紀後半にふさわしく、次々に発明、改良されていた時期であり、シーボルトは気圧計を利用して富士山の高度を測定することを企てる。一八二六年(文政九年)にシーボルトは江戸参府の旅行の途上、富士山を見てその景観の素晴らしさを、彼の『江戸参府紀行』に記した。当時の西洋では、シーボルトはほとんど唯一の日本学者であり、富士山の存在も銅版画を添えた彼の本によって広くヨーロッパで知られたのである。
このときシーボルトに同行した二宮敬作(にのみやけいさく 一八〇四~六二)は、二年後の文政十一年(一八二八)に富士山に自ら登頂し、気圧計による標高の測定を行った。その値は三七九四メートルという当時としては驚異的に正確なものであった(現在は三七七六メートルと確定されている)。ちなみに、日本全国を測量したことで知られる伊能忠敬(いのうただたか 一七五四~一八一八)は、享和三年(一八〇三)に富士山を象限儀(しょうげんぎ)によって高度測定し、三九二七メートルという値を得ている。
ケンペルは、『江戸参府紀行』の中で、役人たちの見張りが厳しくて、行動の自由がなかったことをこぼしているが、その学識を尊重されて長崎郊外で塾を開くことを許されたシーボルトでも、富士山に登ることはできなかった。
その富士登山を是非実現させたいと、オールコックは固執した。外国人の居住は江戸幕府は認めたが、日本国内を自由に旅行することは、認めていなかった。しかし、オールコックは、外交官は旅行の自由を持っている特別の存在であるとして、幕府に富士登山を認めるよう要求を続けた。なにゆえ、そのようにオールコックは登山に執念を燃やしたのだろうか。富士山は、富士講によって大衆登山の趣を呈しており、無数の日本人が富士山に登っていたわけであるが、外国人が登ったことは今までなかった。西洋人として最初の富士山登頂者になることの意味、地理学的な探究心、つまり自然科学の分野における功名心もそこにはある。オールコックは王立地理学協会にも、日本国内の「探検」について報告している。
何よりもまず、十九世紀後半のヨーロッパは、いわゆるアルピニズムが若者の心を捉えた時期であった。ろくに高い山のないイギリスで、ヨーロッパアルピニズムが若者の登山熱は最も盛んだったのであり、ヨーロッパアルプスの主峰三十九座のうち、十九座がイギリス人によって初登頂されているのである。『アルプスアルプス登攀記』(一八七一)で知られるウィンパーが、マッターホルン(四四七七メートル)に二十一歳で初めて挑戦したのが一八六一年で、八回目の挑戦でようやく成功したのが、一八六五年のことであった。
オールコックが富士山に登頂したのは、来日二年目の一八六〇年(万延元年)であり、ウィンパーがマッターホルンに初めて挑戦する前の年にあたっている。ヨーロッパのアルピニズムの旬の時期だったのである。
こうして熱心に富士登山を求めるオールコックに対して幕府が反対した理由の一つとして、「慣習的に下層階級の人々だけにかぎられている巡礼に出かけることは、ふさわしいことではない」(『大君の都』山口光朔訳、岩波文庫)ということを記しているのは興味深いことである。オールコックも、富士山への巡礼が、金も暇もないような貧しい階級の人だけによって行われていることに気づいていた。富士登山は、富士講の人々によって言わば独占されていたのであり、江戸、関東の庶民のものであったのだ。身分ある武士や、ましてや大名のような者が登るものではないのだから、イギリス公使という肩書を持つ高位の者が、富士登山などするべきではないというのである。
おそらく幕府は、イギリス公使が富士登山をするとしたら、もともと「黄巾の賊」にもなぞらえられていた不穏の気の或る富士講の連中が、外国人、異教徒であるイギリス公使にはたして何をするかわからない、という心配もしていたのであろう。ところがいざ富士に出発となると、下働きをすればただで富士登山ができるというので、その下層階級の人々がたくさん一行に加わることになったのである。富士講の人々には案外にも外国人を嫌悪する感情はなかったようなのだ。
オールコックは、『大君の都』の記述では、幕府がつけてくれる役人が、「スパイ」でもある、と幕府方に対して警戒と不信感を隠さないし、富士登山が実現しないのは徳川幕府の外国人嫌い、何もかも幕府の規制の中に押し込めようとする閉鎖的政策のゆえであるとイライラしていた模様である。だが、幕府方が渋ったのは、案外、外国人に対して日本の汚いところ、下卑たものを見せたくない、という伝統的感覚のゆえであったのではないか、と思われるふしがある。
というのは、江戸時代、唯一の正式な外国使節であった朝鮮通信使を迎えるにあたっては、幕府は何ヶ月も前から朝鮮通信使の通行する海路、海道での接待を担当する諸藩に通知して、街道の清掃から、宿舎の整備から万事遺漏のないように取りはからっていたからである。ときには通信使のために宿舎をわざわざ新造することも珍しくはなかった。
これであるから、いきなり一ヶ月後に富士山に行きたいと外国の高位の使節が申し出たとしても、それにふさわしい接待、街道の整備ができない、と幕府役人が困惑したとしても不思議はないのである。この点について参考になるのは、明治維新後のことであるが、一八六九年(明治二年)にイギリスの王子エディンバラ公が日本を訪問したときの記録である。明治政府からの報告では、王子の通るはずの道筋が清掃、修理されたという。「殿下(英国王子)が江戸の宿舎へ出発される前日には、道筋は掃き清め、修理される」(ミットフォード『英国外交官の見た幕末維新』長岡祥三訳、講談社学術文庫)。
はたして、富士山の火山岩を積んで作った山中の宿泊所、室、つまり下層階級の人たちの泊まるのと同じ宿泊施設に泊まったオールコックは、おそらく日本でそれまで出会ったことのなかった不潔さ、不愉快さに遭遇する。毛氈を敷いてごろ寝したオールコックは「寒さとさきの巡礼者が残していった居住者たちのために熟睡をさまたげられた」。この場面は、芭蕉が『奥の細道』で体験した、粗末な宿での蚤(のみ)、虱(しらみ)と馬の小便に悩まされた一夜の有様を思い起こさせる。
蚤虱馬の尿(しと)する枕もと
さてオールコックが幕府のしぶしぶながらの賛同を得て、富士登山に出発したのは一八六〇年九月、日本の年号では咸臨丸がアメリカにわたった万延元年の七月のことであった。小田原から、箱根の山中を通過するにさいして、オールコックはスイスを旅行したときの記憶と、日本の山岳の景観の比較を行っている。
(箱根の山道は)スイスを旅行した者には、オーベルラントのある部分、特にローテルブリュンネンへの下り坂を思い出させる個所が多かった。マツの木がいっぱい生えている高い山やみずみずしい緑色の渓谷とか屈折しながら下の野原に流れてゆく渓流などがよく似ている。だがそれは、主要な特徴の面ではあまり雄大ではない。ここには永久的な氷河や雪のマントをかぶったむき出しの岩や高峰はない。
オールコックによれば、スイスのユングフラウは日本のすべての山をみすぼらしく思わせる偉大な山なのである。しかし、日本の山の植物の豊かさは、ヨーロッパアルプスをはるかに超えていることは、オールコックも素直に認めている。
そうしてとうとうオールコックは、富士山の頂上に達する。富士山の火山灰の歩きにくい道と、次第に薄くなる空気に悩まされながらも、富士山の頂上に達する。一八六〇年九月十一日のことであった。
オールコックは、科学的な測定を山頂で試みる。
水は華氏一八四度で沸騰した。噴火口のふちの算定された高さは、海抜一三、九七七フィートであり、最高峰の高さは一四、一七七フィートであった。富士山の上のわれわれの休息所で、緯度は北緯三五度二一分、経度は東経一三八度四二分と計算された。羅針盤の偏度は西三度二分。正午のひなたの空気の気温は華氏五十四度。
気圧計によって計算した富士山の標高は、四三二一メートルで、残念ながら二宮敬作が三十年以上前に測定した方が、はるかに正確である。オールコックが富士山でしたことで間違いなく史上空前、ユニークであったのは、登山の途中泊った室で夜明けにコーヒーを入れて飲んだことであろう。
ともあれオールコックは、ケンペルの「美しい点ではおそらくほかに匹敵するものがない」という言葉を引用して、富士山の美しさを讃えている。それに加えてオールコックは富士山の美を表現するのに、ケンペルやシーボルトよりも文学的な表現を用いることができた。
(富士山は)晴れた夏の夕方には、八〇マイルほど離れた江戸からも見えることがある。そういうときには、雲の上にその頭を高くもちあげており、夕日がその背後に沈むので、その深紅色の大きなかたちが金色のついたての上にすっぽり浮き出しになって見える。また早朝には、朝日の光が頂上の雪に反射して、その円錐形が輝いて見える。
オールコックを、富士山の美の世界を紹介した功労者と呼ぶに値する文章であろう。
もう一つ、富士山を讃えた西洋人の文章の早い時期のものとして、アメリカ公使ハリスの通訳であるヒュースケン(一八三二~六一)の日記を引用しておこう。彼は、この日記に富士山の美しさを記したのち間もなく攘夷派(じょういは)の浪士に襲われて命を落とした。彼が日本の自然美をかくも愛していたことを思うと、彼の横死の悲運を悼まずにはいられない。
ここでは、ゆたかな作物におおわれた、はれやかな田園の只(ただ)なかに、大地と齢(よわい)を競うかのような松の林や、楠(くすのき)の老樹がミヤ、すなわちこの帝国の古い神々の祠堂(しどう)に深い影をさしかけており、ゆったりと静まりかえったこの場景を背後から包みこむように、なにに譬(たと)えようもない富士ヤマのすっきりとした稜線が左右の均斉を保って空高くそびえたち、薄墨いろにかげる青い山肌の上方には清浄な白雲がまるでコイヌール(大きなダイヤモンド)のように夕陽にきらめいている。
(『ヒュースケン日本日記』青木枝朗訳、岩波文庫)
(中央公論新社刊「富士山ー聖と美の山」中公新書より)
