| 52. 明治維新と富士山信仰 |
徳川幕府が富士講を邪教視して、たびたび禁令を出してこれに規制を加えようとしたことはすでに記した。そうであれば、明治元年(一八六八)、明治維新によって徳川幕府が崩壊したことは、庶民たちの富士講にとっては歓迎すべき出来事であったかもしれなかったのだが、実際にはそのようには事は運ばなかった。
明治初年のいわゆる「廃仏毀釈」によって、富士山にあった仏教系の要素、その文化財が壊滅的な打撃を受けたのである。富士山の本体は、それまで「浅間大菩薩」と呼ばれていて、浅間=富士の神と仏教の菩薩の合わさった、典型的な神仏習合の名称であった。明治政府は、神仏習合の典型的な呼称、「八幡大菩薩」を禁ずるとともに、富士山の「浅間大菩薩」という名称も禁止した。
こうした廃仏毀釈の動きの中で、富士宮浅間神社の大宮司に、明治六年、平田篤胤(ひらたあつたね)の国学を信奉した薩摩出身の宍野半(ししのなかば 一八四四~八四)が就任し、強引とも言える廃物運動を富士全山で繰り広げることになる。富士吉田の浅間神社には、享保年間(一七一六~三六)に食行身禄を凌ぐような勢威を誇った江戸小伝馬町の富士行者、村上光清が寄進した仏教系の諸堂宇、護摩道や仁王門があったが、この廃仏の嵐(あらし)の中で破壊される。梵鐘(ぼんしょう)は胴の中に薪を詰めて火をつけて溶かし、打ち毀したという。仁王門の仁王の手足は鋸引きにしてバラバラにして焼き捨てられた。富士吉田浅間神社は、武田氏時代や江戸初期に建てられた神道系の社殿は今日も壮麗な姿をとどめているが、江戸後半期、富士講が最も栄えた頃の神仏習合的な境内の有様は、明治以後消失したのである。
こうした富士山における廃仏毀釈時の仏像などの破壊、棄却は「山掃除」と呼ばれたほどに徹底的なもので、現在でも富士山の古い登山道沿いの山中からは、首のない観音像や大日如来、懸け仏などが、しばしば出土するという。
廃仏毀釈において最も大きな打撃を被ったのは、修験道と関係の深い寺院であるが、富士山もまたその例外ではなかった。新興の富士講などに押されながらも、幕末までは、富士宮浅間神社と並ぶ勢威を保っていた村山口の興法寺も、この廃仏毀釈で最後のとどめを刺された形となって、衰退というより、終焉の時を迎える。今日の神道系の神社の姿だけを見たのでは、往年の富士山信仰の半ばを見たことにしかならないのである。
また、宍野半は、富士信仰の宗教改革も志して神道扶桑教を組織するが、江戸後期の富士講の隆盛からみれば、ごくこぢんまりとした一宗派になってしまった、という観を否めないであろう。むしろ、富士山周辺の宗教ということで言えば、廃仏毀釈のときの弾圧、破壊の対象となった日蓮宗系の寺院の隆盛が、最も現代において印象的な現象であるだろう。
富士講自身の運命について言えば、富士講は信仰集団でもあるが、同時に江戸の庶民にとっては何年に一度しか行けない富士登山を実現させるための、積立金を管理する経済集団でもあり、十日もかけて徒歩で旅をする、自発的な規律を持った巡礼旅行団体であった。
富士講自身の周辺の交通が、東海道本線の開通(御殿場(ごてんば)、沼津、静岡など富士近辺は、明治二十二年〔一八八九〕)、中央本線の開通(富士吉田への分岐点大月(おおつき)駅の開業は明治三十五年〔一九〇二〕)、さらには富士馬車鉄道の富士吉田までの開通(明治三十六年〔一九〇三〕)、富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の開業(昭和四年〔一九二九〕)と、近代的な高速交通機関が東京から富士山への道を次々に切り開いていくと、旅行団体としての富士講の存在基盤が急速に掘り崩されていくことになった。近代科学文明は、中世的な修験道の富士登山、近世的な富士講による富士登山の終焉をもたらすことになったのである。明治に入ると、富士山は宗教抜きの観光地、避暑地として東京の人々に注目されるようになるのである。
(中央公論新社刊「富士山ー聖と美の山」中公新書より)
