「富士山」逸話あれこれ

53. 日本の誇り富士山 『三四郎』

 

 とにもかくにも、これまで見てきたとおり、富士山の美は来日した西洋人の等しく嘆賞するところであった。朝鮮通信使の賞嘆を考えてみれば、富士山こそは日本が海外に誇ることのできる存在である、という日本人の意識が江戸時代初期まで遡(さかのぼ)ることは、すでに見てきたとおりである。
 世界に日本を知らしめる絶好の機会として明治政府が力を入れたのが、万国博覧会であったが、その万国博覧会に出品された作品に、富士山を主題にしたものが時々見られるのも、日本人側に、西洋人からの賞賛を博したいという気持ちが強いことの表れであると見て間違いないであろう。維新後間もない、一八七三年(明治六年)のウィーン万国博覧会に出品された新発田是進(しばたぜしん 一八〇七~九一)作の「富士田子浦蒔絵(まきえ)額面」も、富士を図柄に選んだことは、世界という舞台で受けるという意識がそこに働いているであろう。同じウィーン万国博覧会に、高橋由一(たかはしゆいち 一八二八~九四)は、「富嶽大図」を出品している。これも富士山で受けを狙(ねら)ったという意識は隠せないだろう。
 こうした美術界の流れに、第一章で書いた、当時の世界最新鋭の戦艦に「富士」の名を冠して、その日本までの回航を見事にやってのけたことに、国民的な栄誉を観ずる日本の大衆の無邪気なまでのナショナリズムをあわせ見れば、夏目漱石(なつめそうせき)が小説『三四郎』(一九〇八)の中で、日本の誇れるものといったら富士山ぐらいしかない、という自嘲的な発言を広田先生に言わせていることの意味も、おおよそ見当がついてくるのである。
 熊本の田舎から東京大学に入学することになった三四郎は、その東京に向かう汽車の中で広田先生という一風変わった人物に出くわす。広田先生はこれから東海道線の車窓から眺められるはずの富士を話題にして、次のように煙に巻く。

   「あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」

 要するに、漱石は日本人が富士山が自分たちだけのもののように思って、それが我が国にあるから、と威張っていたとしても、国そのものがあまり程度が高くないのでは仕方がない、と言いたいのである。日本人がこしらえたものが優れて美しいのなら、日本人がそれを誇ってもよいだろうが、富士山は「天然自然」のものであって、日本人が作ったものではない。だから、それより他に自慢するものがない、というのは、国としてみれば恥ずかしいことでもある。全く巨大戦艦「富士」にしたところで、それはイギリス造船技術の粋を集めて建造されたものであって、それを誇りに思うべきなのはイギリスの造船所でなければならない。
 漱石はイギリス留学の経験もあり、英文を読むことは自由自在であったから、イギリス人たちの富士山賞嘆の言葉も知っていたであろう。であれば、富士山という天然の美を鑑賞するのに、日本人もイギリス人も区別はないのである。富士山の美は世界万人のものであって、日本人の独占物ではない。だから、その富士山をもって日本の誇りの代名詞のように言うような日本人が、漱石には我慢ならなかったのである。日本の近代化の浅ましさを批判した評論『現代日本の開化』(一九一一)では、外国人に自分の国には富士があるという物の言い方を「馬鹿(ばか)」と切って捨てている。そうしたたぐいの日本自慢は、日露戦争に勝ったから日本は一等国である、という浅薄な優越感、ナショナリズムと同じくくだらないものなのだ。

   外国人に対して乃公(おれ)の国には富士山があるというような馬鹿は今日はあまり云(い)わないようだが、戦争以後一等国になったんだという高慢な声は随所に聞くようである。

 ともあれ、漱石の富士山に関する発言は、このような世間一般の富士山を日本ナショナリズムの象徴のようにとる考え方とは一線を画している。素晴らしい富士山を素晴らしいものとして素直に賞嘆する単純さは江戸っ子の漱石から見れば、浅薄な田舎者の心性に過ぎないのだ。すでに過去の時代の産物である北斎の「富嶽三十六景」を思い出してみれば、富士山だけを書いた「赤富士」のような構図は、「富嶽三十六景」の中では少数であり、様々な人の営みを主体として富士を添え物の遠景にとった構図が多いことは前に指摘した。富士山を見ると言ったって、ただ富士そのものを描くだけでは平凡だ。ひねりを一つきかせたのでなければ、芸がないのである。
 世間の人々が富士山は日本の誇りだと言うなら、そんなものは日本の誇りではない、と言ってのけるのでなければ面白くない、という、知識人の考え方は、世間一般とは同じでないのだ、という精神的貴族としての矜持(きょうじ)の表れでもあろう。
 また、明治政府が薩長(さっちょう)の田舎者に占められて、その田舎者たちが日本ナショナリズムの象徴として富士山をやいのやいのと持ち上げることに対する、江戸近郊(目白)生まれの漱石の反感もそこには含まれていよう。だいたい、富士山は富士講の人々、つまり江戸の庶民の目から見れば、自分たち庶民の山であって、権力者のお山ではなかった。明治の富士山をこれと比べるなら、それまで江戸庶民の反権力感情の砦(とりで)だった富士山は、天皇制を隠(かく)れ蓑(みの)にする薩長藩閥政府によって、日本国権の誇りという張り子の虎のようなものに描き変えられて、いうなれば、明治政府によって乗っ取られたのである。漱石という号が、世の流れとは全然同調しないすね者、反骨の野人を暗示していることは、よく知られているが、やはり夏目漱石は、政府やそれに提灯(ちょうちん)持ちする浅薄なマスコミの富士礼賛の声に、いらついていたし、反感も覚えていたと判断してよかろう。

(中央公論新社刊「富士山ー聖と美の山」中公新書より)

 

 

 

自由に検索 → 
「リンク(参照先)など」

「出版社名」 「書名」
します。



富士山逸話あれこれを