「富士山」逸話あれこれ

55. ポール・クローデルの「松」

 

 ラフカディオ・ハーンに少し遅れて富士山の絶景に接して、その富士山の姿を詩に書きとどめたのが、フランスの詩人、外交官、ポール・クローデル(一八六八~一九五五)である。後に駐日フランス大使として日本に滞在することになるクローデルであるが、最初の来日は、一八九八年(明治三十一年)の五~六月、ちょうど梅雨のころであった。クローデルはこのとき、中国の上海(シャンハイ)領事館勤務であり、休暇を利用して一ヶ月ほど日本の各地を旅行してまわった。クローデルはこのとき、日光を訪問していて、そのときの印象も詩に残しているが、富士山は「松」と題された散文詩の末尾に現れる。
 クローデルは日本の松について、様々な考察を重ねる。節くれ立った幹、荒い樹皮などは、強風を吹き付ける厳しい気候に抵抗する松の最も特徴的な部分である。「古い悲劇の道である東海道をたどりながら、私は松たちが大気の強大さに対する闘いを続けるさまを見た」。松は石ころだらけの土地に根を張って、海から来る強風に抵抗しているのである。

   かくして頑強な日本の松は天空のつくりだすすべての壮麗な風景、星空や曙の光にも抵抗し、遮るのである。それゆえ、壮大な富士山の風景さえも松は我々の目から遮ろうとするのだ。それでもなお、富士の荘厳な姿は我々の目に飛び込んでくる。

 松は、この調和に満ちた国の風景に気まぐれな彼らの林の輪郭を加えて、自然の魅惑的な輝きをさらに引き立たせでもするかのように、彼らの群れの奇妙なしみを付け加える――陽光の中の蒼(あお)い海原の栄光と力強さに、――麦秋の畑に、――そうして星空や曙の構図を遮りつつ、天空に。松はその枝葉を垂れかける――朱に燃えたつ躑躅(つつじ)の茂みの向こう、りんどうの青色の湖面まで、あるいは、帝国の都市の嶮(けわ)しい城壁をさらに越えて、掘り割りの土手の草の薄い緑にまで。そうしてその晩、神殿の偉大な柱のような、「無限」のさやけさの中に戴冠する聖母のような富士に、松葉の黒い茂みが雉鳩(きじばと)色の山岳に重ねられるのを、私は見る。          (『東方の認識』筆者訳)

 富士山の姿を、冠を戴くマリアにたとえているのは敬虔(けいけん)なカトリック教徒であったクローデルらしいと言えるが、この富士山の神・・・・・・コノハナサクヤ姫が女神であることをガイドから聞いたか、あるいはすでに世に出ていたバジル・ホール・チェンバレンの『日本事物誌』(一八九〇初刊)などによって、富士山の神が女性であることを知っていたのであろう。
 カトリック教徒にとっての女性の神とは、聖母マリアに他ならないではないか。チェンバレン自身は、『日本事物誌』で、その山の神が女神であるからといって、富士山全体を女性と捉えて彼女Sheと書く者がいるが、それは間違いである、と言っているから、富士山を女性名詞と考える英語の著者がいたことも確かである。
 さて富士山を遮るように松の黒々とした姿を重ねる構図であるが、東海道を旅したクローデルはそうした風景を実際に眼にしたかもしれない。一方、クローデルは姉の彫刻家カミーユ・クローデルの影響で日本美術に対する興味を日本に来る以前から持っていたから、北斎の「富嶽三十六景」などにしばしば登場する、富士山を遮るような松あるいはその他の樹木という構図にも親しんでいたはずである。
 例えば「甲州三島越」では、暗く青い陰で表された富士山の前に巨木が中央に屹立して、富士山は画面の中に納まっているのに、巨木のてっぺんは画面の外にはみでてはるか上である。松の木でいうなら、「隅田川関谷(すみだがわせきや)の里(さと)」では、街道のはたの一本の曲がりくねった松のはるか川向こうに、小さな富士が見えている。クローデルと符合する東海道の松ということであるならば、「東海道程(ほど)ヶ谷(や)」の図では、立ち並ぶ東海道のそれほど太いわけでもない松並木の枝葉の部分よりもかなり低く、松の間に白と藍(あい)の富士山が穏やかに望まれている。
 またクローデルが日本芸術に興味のあるフランスの詩人として必ず眼にしていたと考えられる、日本詩歌のフランス語訳に浮世絵の版画を加えた『蜻蛉集(せいれいしゅう) Poèmes de la libellule』(一八八五)にも、富士山の版画は載せられているが、その構図は蘆(あし)が大きく全面に描かれており、裾野まで雪の白であるなだらかな富士山は、蘆の間に低く、蘆の葉の間からのぞかれるように描かれている。この『蜻蛉集』は、当時フランス留学中だった西園寺公望(さいおんじきんもち 一八四九~一九四〇)がフランスの女流詩人ジュディット・ゴーチェ(一八四六~一九一七)の協力を得て、山本芳翠(一八五〇~一九〇六)の版画を加えて出版した日本和歌集であり、フランスにおける芸術上の日本趣味、ジャポニズムの流行に一つの画期をなした翻訳詩集である。北斎などの浮世絵を中心とするフランスのジャポニズムの流れの中に、詩人クローデルの一八九八年の日本旅行も含まれると言っていいであろう。
 ところで、ポール・クローデルは後の一九二一年(大正十年)に駐日フランス大使に着任し、一九二七年(昭和二年)まで日本に滞在することになる。西園寺公望は、この当時は元老の第一と言える存在であり、文化の時代と言える大正時代の裏の演出者とも言える存在であったが、フランス語をよくするこの西園寺公望とクローデルの間には親しい交際があったのである。
 のち、故国フランスで日本の敗戦の報に接したクローデルは、一九四五年八月三十日、「さらば日本」と題する日本への別れを告げる文章に次のように書いた。

   ともあれ、私がいま別れを言わなければならないのはあの古い日本、私がかって長く暮らし、愛してやまなかったあの日本に向かってだ。たしかに私も、他の誰にも劣らず、あの軍部というものの残忍さ、背信、野蛮の行為を強く責めずにはいられない。あの国は、昔の政治家たちが持っていた智慧(ちえ)を失ってしまって、軍部のせいで今日の破滅を迎えた。だが、だからといって、冬の夕空に浮かび上がる富士の姿が、この世の人に与えられた最も崇高な光景の一つであることに変わりはない。日本の美術が、そしてまた日本の詩歌が、そのみやびな美しさにおいて、ものの本質を<示唆する>そのわざにおいて、人間の思想のいとなみに限りもなく尊い寄与をなしてきたことに変わりはないのである。   (『クローデルと日本』芳賀徹訳、クローデル歿後五〇年記念企画委員会)

 ここでは富士山は、日本のみやびな美しさを讃えた日本の美術や、日本の詩歌と同様に崇高にして、永遠の価値を持つものなのである。
 ここでクローデルが日本を滅ぼしたとして非難している日本の軍部、あるいは軍事政府は、第二次大戦末期になると戦時国債の図柄に戦車や飛行機とならんで、富士山の図柄を用いたりしていたが、クローデルの見ていた富士山、追憶の中に残る富士山の姿は、そのような近視眼的な、焦燥にかられたナショナリズムとは無縁の、永遠の美、人類にとって永遠の価値を有する、東洋の果ての民族の持つ芸術美の象徴だったのである。
 クローデルが大使として住んだ東京では、冬、大気が乾燥して遠望がきくようになり、特に夕暮れ時、雪をかぶった富士山が夕映えの西の空によく望まれる。クローデルも東京で過ごした間に、「夕空に浮かび上がる富士」を繰り返し眼にしたことであろう。

(中央公論新社刊「富士山ー聖と美の山」中公新書より)

 

 

 

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