| 60. 今日はなんの日、富士山の日 |
(新日本出版社「今日はなんの日、富士山の日」(田代 博)より)
| ① 世界遺産への取り組み |
これに先立ち、二〇〇〇年に文化保護審議会(当時)の「世界遺産条約特別委員会」は、「富士山は、顕著な価値を有する文化的景観として評価できる」という報告を出していました。
このため、自然遺産ではなく、文化遺産としての登録を進めることに方針を変え、二〇〇五年、NPO法人「富士山会議」が発足しました。また、静岡・山梨両県、関係市町村による「富士山世界文化遺産登録推進両県合同会議」も設けられました。
二〇〇七年には、文化庁が暫定リスト(世界遺産暫定一覧表)に掲載し、ユネスコに提出しました。同年三一回ユネスコ世界遺産委員会ではそのことが報告されました。暫定リストとは、その国の世界遺産候補であることをユネスコに示すリストのことで、これに掲載されていないと、世界遺産委員会での検討の対象になりません。その点では、大きな前進と言えるでしょう。なお、石見(いわみ)銀山の文化遺産登録が発表されたのがこの委員会でした。
ところで、富士山が自然遺産での登録が見送られたのは、山小屋のトイレ問題だけが原因ではありませんが、深刻な問題であることは確かです。今まで屎尿は垂れ流されていました。トイレットペーパーは地表に残るので、遠くから見ると白い筋のように見え「白い川」と呼ばれたのです。残雪のように見えるので「残雪川」と呼ばれることもありました。
また、裾野へのゴミ投棄や、無秩序な開発なども大きな問題ですが、何より考えなくてはならないのが演習場(基地)の存在です。トイレなどよりも質的にも量的にも重大な問題なのですが、一般のマスコミなどはほとんど触れていません。憲法第九条や安保条約と正面から向き合わなければならなくなるからでしょう。
山梨県議会では、日本共産党の県議(当時)の石原秀文さんがこの問題について質問していました。山梨県議会の会議録から紹介します。
二〇〇六年一二月定例会(二〇〇六年一二月一四日)
「日本共産党を代表して、『富士山の世界文化遺産登録に関する意見書』について一言申し上げます。
この意見書に賛成ですが、意見書にあるように、日本の象徴、信仰の場として崇拝され、稀有な文化的象徴を有する富士山に最もふさわしくないのが、静岡・山梨両県にまたがる日米の広大な軍事演習場です。
演習場は、この十年間、富士山を世界遺産にという住民運動を無視し、量・質ともに強化されてきました。沖縄米海兵隊の東富士・北富士合わせると十六回にも及ぶ移転訓練、そして、東富士演習場では、市街地戦闘訓練場として、四階建ての住宅、店舗、ホテルなど十一棟の模擬市街地がつくられ、訓練が行われています。また、国際法違反の白リン弾を使用した訓練が実施されました。
北富士演習場では、自衛隊のイラク模擬宿営地の建設と、九回にわたるイラク派遣部隊員の訓練、さらに富士訓練センターの創設と、百二十回にわたるFTC訓練(ハイテクを駆使した模擬訓練。FTCはFuji Training Center )が行われてきました。このような演習場の強化は、米軍基地の再編の中で、今後さらに進むと予想されます。
過去の歴史を見るなら、戦争が貴重な文化遺産を破壊してきた例は枚挙にいとまがありません。文化をはぐくむことと戦争とは共存できません。
富士山が、真に世界に誇れる文化遺産となるために、北富士演習場の全面返還、平和利用の実現を防衛庁に求める意見書をあわせて提出することを求め、討論を終わります」
まさしく核心をついた意見ではないでしょうか。ではなぜ、富士山の周辺にこうした演習場があるのか、経過とその実態を事項で見てみましょう。
| ② 富士を撃つな! |
私が行った日は、富士山は雲に隠れていました。富士山も、麓でのこんな光景を見たくなかったのでしょう。
●東富士演習場
富士山麓の東側と北側は自衛隊の演習場でしめられています。東麓の東富士演習場は、約八八k㎡で、本州最大の演習場です。しばしば、山手線がすっぽり入る大きさと形容されます。御殿場市、小山町、裾野市にまたがり、御殿場市では市域の三分の一を占めています。管理しているのは、富士駐屯地に所在する陸上自衛隊富士学校です。また、「キャンプ富士」と呼ばれるアメリカ海兵隊の「富士営舎地区」があります。収容兵員一五〇〇人以上の建物群が「思いやり予算」で整備されています。
「ここでは、・・・・・・あらゆる火器の実弾射撃訓練が行われています。また戦車・装甲車が・・・・・・走り回り、空にはヘリコプターが飛び交い、・・・・・・隊員が野戦さながらの演習をしています」(静岡県平和委員会「富士山宣言」)。御殿場市の畑岡地区は富士総合火力演習の会場にもなります。
東富士演習場は、一九一二(大正元)年、旧陸軍と地元町村との間に使用協定を結んで、富士裾野演習場として開設、軍が使用しない時は地元住民の立ち入りが自由な軍民共同体制となっていました。
しかし、太平洋戦争終結後の、短期間の開放時代の後、一九五〇年米軍が強制接収してからは全面立ち入り禁止となり、基地被害の犠牲を強いられてきました。一九五八年、ようやく米軍が撤退しましたが、かわりにやってきたのは自衛隊でした。地元地権者は国を被告として「自衛隊立入禁止訴訟」を提訴しました。これは翌年、米軍演習場の全面返還や、自衛隊の演習行為に一定の規制をした小協定を結ぶなどという「東富士四原則」を条件に和解が成立しました。
演習場の全面返還は、米軍のアジア戦略の変更や日本政府の怠慢もあり、実現したのは一九六八年になってからでした。キャンプ富士を除く地区が日本に返還され、「日米使用転換協定」により自衛隊が管理するようになりました。但し、この返還は、年間二七〇日の米軍の優先使用などの密約があり、見せかけの返還だったと言われています(静岡県平和委員会『米軍再編強化と静岡県』)。
一九九七年度からは、米軍第三海兵隊による「沖縄県道104号越え実弾射撃訓練」の分散・実施訓練が行われています。沖縄県道104号線は、沖縄県国頭郡恩名村安富祖(くにがみぐんおんなそんあふそ)と金武町金武(きんちょうきん)を結ぶ県道で、道路を通行止めにして実弾砲撃訓練が行われていました。その沖縄の「負担軽減」のために、沖縄以外の演習場で分散実施されているものです。他に北富士や矢臼別(やうすべつ)(北海道)、日出生台(ひじゅうだい)(大分)演習場があります。二〇〇六年には建物一一棟からなる市街地訓練施設がつくられました。市街戦、テロ戦争を想定した訓練が行われています。
演習場周辺の一般道路でも自衛隊の独特の車両が頻繁に走っています。他の地域から来れば異様な光景です。御殿場市は軍都であることを思い知らされます。
静岡県平和委員会は、毎年のように冊子をつくり、自衛隊・米軍基地の危険な動きを市民に明らかにしています。
●北富士演習場
北富士演習場は約四六k㎡で、大半が富士吉田市に属し、一部が山中湖村になります。約半分が県有地で(五二%)、国有地が四一%、残りが私有地です。県有地が半分以上というのは、全国に七一ある演習場の中でここだけです。
一九三六(昭和一一)年に、私有地や県有地が買収されて旧陸軍の演習場として設置されました(一九七九ha)。戦後は米軍に接収され、周辺を含め一〇倍近くまで拡大した時期がありました。一九五八(昭和三三)年に返還され、一九七三(昭和四八)年から国と県などの間で使用協定が結ばれ、五年ごとに更新されています。管理は自衛隊が行い、日米地位協定により米軍も使用する基地となっています。演習場内の固有地については、従来の入会(いりあい)慣行を尊重し、期間を定めて地元の関係者の立ち入りが認められています。
ここではどんな訓練が行われているのでしょうか。東富士演習場と同様に「各種の部隊訓練及び小銃、機関銃、迫撃砲、榴弾(りゅうだん)砲(炸裂する「榴弾」と呼ばれる大砲の一種)その他の火器、火砲の実弾射撃訓練に使用されています」(山梨県のHP)。「米軍と自衛隊による榴弾砲や対戦車砲、機関銃から小銃まであらゆる火器の実弾射撃訓練が行われています。戦車・装甲車がキャタピラを軋(きし)ませて縦横無尽に走り回り、ハイテクの装備を身につけた大隊編成から小隊編成の隊員が野戦や市街戦さながらの演習を行っています(山梨県平和委員会「日本国憲法9条の光さす平和な富士山に」二〇〇七年)。
箱根や道志(どうし)・西丹沢の山を歩いていると、時々ドーンという音が聞こえます。実弾射撃訓練により、砲弾が富士山の中腹で炸裂しているのです。「富士を撃つな!」と呼ばずにいられない心境になります。
また、二〇〇〇年には、北富士駐屯地に「富士訓練センター」(FTC)とも呼ばれる「部隊訓練評価隊」が設けられました。これは、「実弾の代わりにレーザー光線及びコンピュータなどの各種機材を駆使してより実戦的な訓練」(防衛白書)を行う世界でも有数の施設で、ある意味、とんでもないものです。
北富士演習場は、国立公園特別地域が基地にされている全国唯一の演習場です。演習場内の柏原地区には約一〇〇箇所の溶岩樹型があります。米軍はその幾つかを破壊して米軍戦車を移動させる新弾丸道路工事を行ってきました。こうした訓練をやめさせることが「富士山を世界遺産に」する確実な保証と言えるでしょう。
二〇〇八年八月には、「富士山の溶岩樹型を守る会」が結成されました。
北富士演習場というと、「入会権」(地域の住民が、慣行によって特定の林野を自由に共同利用する権利)を主張し、演習場内での座り込みなどの「実力闘争」で国や県との闘争を続けてきた忍野(おしの)村の「忍草(しぼくさ)母の会」「忍草国有地入会地守る会」を思い浮かべる人もいるでしょう。メンバーの高齢化や後継者不足により、二〇〇八年には活動を終えました。当事者が記したものに忍草母の会事務局『北富士入会の闘い』(お茶の水書房)があります。また、静岡地理教育研究会編『富士山 世界遺産への道』(古今書院)は一章を設け、『北富士に忍草の火は消えず』として、一九六〇年の結成から、一九九〇年代末までの動きを綴っています。
山梨県平和委員会をはじめとする諸団体は、演習をやめさせ返還に向けて粘り強い運動を続けてきました。まずは演習場の様子を知るために、「さあ! 北富士フィールドワークに行こう!」というイベントも行っており、半日コースでは次のような施設・場所を訪れています。
梨ヶ原廠舎(演習場内の自衛隊の施設)→榴弾砲発射地点→機関銃等小火器射撃訓練施設→徹甲弾ドーム(徹甲弾は装甲に孔をあけるために作られた砲弾。命中しなかった時に飛び続けるのを防ぐための施設が徹甲弾ドーム)→榴弾砲弾着地点(監的(かんてき)所〔着弾を観察する施設〕)→柏原溶岩樹型群→梨ヶ原廠舎
四二ページでも記しましたが、演習場内だけなく、周辺の一般道路にも独特の形をした自衛隊車両が頻繁に走っており、軍国主義の時代にタイムスリップしたような異様な光景に驚かされるでしょう。
富士総合火力演習の観覧希望者が年々増えていることなどを考えると思いは複雑ですが、今こそ憲法九条の世界的意義を考え、富士山を平和の山にしていく道筋を明らかにしていかなければなりません。
| ③ 富士見地名あれこれ |
「地名とは・・・・・・地表を分割している個々の対象物の名の総称である。つまり、地域を代表し、地名意識を人々に植えつけるものならば、それは地名と称して誤りでなかろう」
私もこのような立場で考えることにしました。富士見地名をまずは自然地名、社会地名に大別し、後者は行政(市、町、字など)、交通(駅、バス停、橋、信号、交差点、通り、道路、パーキングなど)、生活(学校、公共施設、団地、緑地など)、その他に区分しました。
インターネットの普及、特に地図分野の充実により調査はしやすくなりました。地名検索では【ちず丸】というサイトを便利に使っています。しかし、市町村合併の影響もあり、裏付け・確認作業に手間がかかるということもあって、個人での全国富士見地名データベース作成作業は、なかなか進みません。表は、作業途中のものの仮集計で、自然、行政の全部と交通のうち、駅、橋を合計したものです。これでも大まかな傾向はつかめますので、特徴的なことを述べていきましょう。
富士見地名は全国三七都道府県に合計四一八あります。東京が静岡県を抜き一位なのが意外ですが、三割は富士見坂なので、台地と低地からなり両者を繋ぐ坂の多い東京ならではということで、納得できるでしょう。
東京の富士見地名については、人文地理協会の会長をつとめた足利健亮さんが、『景観から歴史を読む』(NHKライブラリー)でユニークな仮説を提唱されていました。徳川家康が江戸に幕府を開いたのは「富士山が見えるところだから」というのです。確かに江戸城には富士見櫓(やぐら)もあります。では、家康はなぜ富士山が見えることにこだわったのでしょうか。それは、「富士見」が「不死身」に通じるというのです。言葉遊びのように思えますが、武士にとって不死身は理想だからです。
ところで、富士山を望むべくもない北海道が七位と上位にくるのは、利尻富士(利尻岳)、蝦夷富士(羊蹄山)など地元にある「ふるさと富士」に由来しているからです。香川県や青森県なども同様です。ただし、富士山の見えない県の中で、ふるさと富士が多くても富士見地名はほとんどない県もあることがわかります。ふるさと富士が一番多い兵庫県には富士見地名は二ヶ所しかなく、次いで多い岡山県には一ヶ所しかありません。それらの山は、富士見地名がつくほどには富士山らしくないからなのでしょうか。数字だけを見ると、ふるさと富士と富士見地名の間には必ずしも関係がないのは興味深いところです。
富士山を誤認したり、見たいという願望から付けられたものもあります。名古屋市中区富士見町は、南アルプスの聖岳(ひじりだけ)を富士山と誤認したことから来ているようです。聖岳は見る方向によっては、富士山のように見えます。同じく名古屋市千種区の富士見台は、天気がよい日には富士山が見えるだろうという期待を込めてつけられたもので、「願望としての富士見」地名です。実際には地形的に見えません。恵那山の北、長野県・岐阜県境の富士見台も同様です。地名での聞き取りで、「富士を見たいから富士見台です」と言われ、思わず笑ってしまったことがありました。
平成の大合併により、行政上の富士見地名にも変化がありました。何と言っても一番大きいのは群馬県勢多郡富士見村が無くなってしまったことです。村として唯一の存在だったのですが、二〇〇九年前橋市に編入されてしまいました。
行政地名で判断が難しいのは、町内会や自治会でつくる行政区としての富士見町です。行政上の富士見地名の多くがこれです。例えば静岡県藤枝市に「富士見町」という町内会がありますが、それは住所の表記ではありません。住所は藤枝市駅前一丁目周辺です。しかし、通称名として現地では通る名称ですので、富士見名としてカウントしています。
参考サイト【富士見地名一覧】個々の地名について具体的な説明や写真を掲載しています。
| 各地の富士見地名の数(37都道府県 合計418) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ふるさと富士の都道府県別数 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ③’ 富士見坂を歩く |
■西日暮里(東京都荒川区)
山手線にある一八の富士見坂の中で、今も見える二つのうちの一つです。私は十数年前から何十回も通っていますが、その都度、地元の方が声をかけてくれます。人情味の厚い地域柄もここからの富士山を魅力的なものにしています。
しかし、二〇世紀最後の年に視線上にマンションが建設され、左斜面を隠してしまいました。「日暮里富士見坂を守る会」などが精力的な運動を行い、衆議院の本会議でも取り上げられたことがあるのですが、やめさせることはできませんでした。それでも山頂部と右斜面が見えているのは不幸中の幸いです。まだ両斜面が見えていた一九九〇年からの経年変化は『富士山「発見」入門』に掲載しています。
ここからは一月下旬と一一月中旬にダイヤモンド富士になります。守る会は「二一世紀中に再び富士山の全景を望む風景を取り戻したい」という壮大な展望で、ダイヤモンド富士を見る会などを行っています。
狭い坂道が何百人もの人で埋まることもあります。景観・眺望が私たちの暮らしや心を豊かにしてくれるものであることを実感するためにも、この富士見坂にぜひ足を運んで頂きたいと思います。
(荒川区西日暮里三丁目。西日暮里駅から徒歩五分 浄光寺が目印)
■護国寺
護国寺の富士見坂は、文京区大塚にあるので、行政上の地名から大塚富士見坂と呼ばれることもあります。山手線に二つしかない富士山の見える富士見坂なのに、しばしば無視されてきました。現地に行けばその理由はわからなくもありません。交通量の多い不忍(しのばず)通りの両側にはビルが立ち並び、とても富士山を眺める雰囲気ではありません。
しかし、坂の上からは富士山の右斜面をしっかりと眺めることができます。しかも護国寺の方に下っていくと、山頂部から左側斜面も見えるようになります。下り切ったバス停(護国寺正門)や富士見坂の案内板がある所からも、目をこらせば山頂を眺めることが可能です。
坂名の由来になった護国寺は、徳川綱吉が創建し著名人の墓所があることでも有名です。山門を入るとすぐ、富士山を模した富士塚があります。ここから数分の所に豆大福で有名な和菓子屋があります。職場から五分時々買いにきますがいつも大変な行列。
並ばないで買えるのは、富士山を眺めるのよりも難しいほどです。店内には赤富士の額がありました。
(文京区大塚五丁目と一丁目の間、東京メトロ有楽線護国寺駅下車〔1番出口〕徒歩一分。坂上〔大塚三丁目交差点〕まで、不忍通りの左側〔北側〕を歩く)
■目黒(東京都目黒区)
東京の目黒駅から徒歩五分の所です。目黒駅前は「路上富士」のポイントでもあります。国土交通省関東地方整備局が選んだ「富士見百景」の中の「東京富士見坂」の一つに、「目黒駅周辺」という名で入っています。地元では富士見坂と呼ぶ人もいるそうですが、私の知る限り文献には出てきません。
目黒区は武蔵野台地の南東部に位置しています。谷が台地を刻み坂の多い町になっています。西~南の方向を向いていればみな富士見坂ではあったのですが、今も見えるのは大変貴重です。西に向かう坂道はたくさんありますが、ここ意外はいずれも建物に遮られます。ここも残念ながら電線・電柱が邪魔になります。それがなければどんなにすっきりするでしょう。景観を意識した街づくりが追求されなければなりません。
(目黒区一丁目、目黒駅から恵比寿駅方面に徒歩五分。ホテルプリンセスガーデンが目印。ホテルとマンションの間の坂道。富士見坂の標識はないので注意)
■保土ヶ谷区(横浜市)
横浜も東京都同じように台地と低地のある街です。従って坂道は多いのですが、富士見坂は保土ヶ谷区以外にありません(東と西、二つある)。港町横浜は、富士山のよく見える「望岳都」なので、もっとあってもよいと思うのですが。
保土ヶ谷区のHPには東富士見坂について次のように書いてありました。
「旧地名の『神戸下町(ごうどしもちょう)字富士見坂』から名付けられました」(西も同様の説明です)。気になるのは、富士山が見えるからではなく、字(あざ)名に由来していることです。東西富士見坂は、坂の向きからしても富士山が見える状況にはありません。「線」としての坂道ではなく、「面」としての字名ならどこかには見えるところがあったので、命名されたのでしょうか。
東富士見坂は、バスの通る長い坂です。富士山の代わりに横浜市で一番高いランドマークタワーがよく見えました。一方、西富士見坂は、住宅街の中の歩道で、短いけれどなかなかの急坂です。毎日この坂を上り下りするのは大変でしょう。体力がつき、不死身の体になるから富士見坂とつけたのではないかと、息を切らしながら思ったものでした。
(横浜市保土ヶ谷区月見台 東=保土ヶ谷駅西口徒歩三分。天王町方面へ旧東海道を進む。交番で左折。遍照寺が目印。そこから月見台交差点まで五〇〇m以上の長い坂。西=保土ヶ谷駅西口徒歩三分。東と同じ天王町方面を進み最初の交差点を左に、住宅街を進む。月見台香煙が目印)
■北杜市長坂町(山梨県)
関東富士見百景に「長坂からの富士」の一つとして選ばれている富士見坂です。富士山と一緒に初日の出を見ることができる場所としても知られています。さすがに、東京や横浜の富士見坂と違い、周辺に遮る建物はなく雄大です。富士山だけではなく、南アルプスや奥秩父をパノラマ的に眺めることができます。もちろん振り返れば八ヶ岳もです。山岳展望に関心のある人にとっては素晴らしいポイントです。
近くには三分一(さんぶいち)湧水公園があります。八ヶ岳の南麓にはたくさんの湧水があります。ここはその一つで、湧水を均等に流すために、分水池に三角柱の石を置いて、三つの村に流したという、先人の知恵に由来する名称だそうです。一九八五年には「日本の水百選」に選ばれています(JR小海線甲斐小泉駅から徒歩一〇分、中央自動車道長坂ICから車で二〇分)
富士見坂の多くは、残念ながら富士見えず坂になっています。しかし、現地を歩いてみて、人々の富士山に対する思いの強さを感じました。できるならば高層ビルからではなく、地に足をつけて富士山を眺めたい。そのためには何が必要か・・・・・・、富士見坂からの眺望は、日本の社会のあり方を考えることにも通じるのではないでしょうか。
| ④ 信仰の山 |
江戸時代、富士山に登るのは大変なことでした。当時は女人禁制でもありました。富士山に登れない人のために、身近なところに富士山があり、そこに登れば霊峰富士に登ったのと同じような御利益がある、ということで、江戸後期から各地に富士塚がつくられていきました。先の引用文の「小富士」はこれを指しています。
地域は東京、千葉、埼玉、神奈川を中心に、富士山が見える地域が中止になっています。なお、その中には、富士講とは関係なくつくられたものも僅かですが含まれています。
科学の時代と言われる現在でも、ある種の富士山の写真を飾ると身の回りに良いことが起こる、という人がいるのですから、当時、そのような考え方があったことは十分に理解できます。
講というのは、信仰集団のことですが、それだけでなく親睦や相互扶助の組織で、今風に言えば、「富士山へ登る会」とでも言えるでしょう。
富士講について述べた本には必ず記されていますが、記録に残る一番古い富士塚は、安永九年、食行身禄の直弟子だった高田藤四郎という人が現在の新宿区戸塚につくった「高田富士」と言われています。富士講を考える上で重要な史跡でしたが、早稲田大学のキャンパス拡張工事により一九六五年に近くの水稲荷(みずいなり)神社に移転しています。普段は入ることができませんが、七月第三週の土・日曜に「高田富士祭」が行われ、その日には高さ約七mの富士塚に登頂することができます。
ところで富士塚はどんな形・構造をしているのでしょうか。富士塚についてわかりやすくまとめた有坂蓉子さんの『ご近所富士山の「謎」』(講談社+α新書)をもとに特徴を記します。
▽土を盛った「山」であること(超基本ですね)。▽山の表面を富士山から運んだ溶岩で覆う(今は富士山の溶岩は使えません)。▽頂上に富士山から運んだ土を載せている(これも今はダメ)。▽登山道がある。▽お中道(五合目をぐるりと回る道)もつけてある。▽以上を土台として、山頂に祠や浅間大神(あさまのおおかみ)などの文字を彫った石碑があったり(この存在が富士塚の一番の基本であるとする人もいます)、五合目に小御岳(こみたけ)神社があったり、七合五勺に烏帽子岳があったり、山裾に胎内として洞窟があれば完璧です。
サイズやスペースによって全部揃っているとは限りませんが、登る機会があれば、足下をしっかり確認しながら、どんなものが置かれているか「山肌」をしっかり観察しながら歩きましょう。
かっては頂上から富士山が見えたはずですが(そもそも遥拝所なので富士山の可視圏にあるのが前提)、今は市街地にあるものはすっかり見えなくなってしまいました。
私が実際に訪れたものをいくつかご紹介しましょう。
▼音羽富士(東京都文京区) 護国寺境内。神仏分離のため、富士塚が寺院にあるのは珍しく、この存在に気づかない人も多いようです。「富士道」と書いた石碑や合目石もおかれています。一分もすれば登頂できます。山頂にはアンテナが立っていました。
▼目黒富士(東京都目黒区) 氷川神社境内。地図の会議で日本地図センターに行く時にいつも気になっていたのがここです。池尻大橋駅から歩いて数分の交番の真横が「目黒富士登山口」になっています。江戸時代に目黒に合った二つの富士塚の碑や祠などが、氷川神社に移されています。境内を「山頂」に見立てているのですが、首都高の高架がすぐそばを走り、富士山は気配すら感じられません。
▼川和富士(横浜市都筑区) 一万分の一地形図を見ると等高線が同心円をなしていることがはっきりわかります。それほど見事な形をした標高七四mの富士塚です。江戸時代の後期につくられたものを、港北ニュータウン建設のために移設復元したものです。横浜北部には幾つか富士塚がありますが(池辺富士、山田富士など)、これが一番立派です。二月二三日富士山の日には、ダイヤモンド富士を見ることができることでも知られています。
富士塚は大きなものではありませんので、説明板があっても、見過ごしてしまうこともあるでしょう。皆さんの自宅の周辺や通学経路、散歩コースの付近に富士塚があるかもしれません。気をつけてご覧になってみて下さい。
| 富士塚の都道府県別の数(現存するもの) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| ⑤ 外国にも富士山が |
山の所在から、かって日本が領有、植民地支配をしていた地域が多いことがわかります。また日本から移住した人々が多い地域に見られます。前提として、高い山のある地域(地理用語で言えば新期造山帯)ということになりますが、日本人との関わりによって、高い山はあってもその名がない地域や、その逆もあります。
形は、フィリピンのルソン富士のように、綺麗な円錐形をしており頂上も鋭く、富士山より富士山らしいと言われるものもたくさんあります。ニュージーランドの南洋富士(タラナキ山)は、明治維新直後の日本を舞台にした映画「ラストサムライ」(日、米、NZの合作。二〇〇三年公開)で、富士山の「代役」として使われたほどです。
高さは、グアテマラ富士のように富士山と一〇mしか違わない三七六六mのものもあります。
ところで、日本からの移住者は異国の地で不安がいっぱいだったに違いありません、その時、富士山と似た山を目にしたときに、心安らぐものがあったでしょう。同時に望郷の念を強くしたのではないでしょうか。地元の富士山は、移住者たちを見守る山でもあったのです。米ワシントン州のタコマ富士(レーニア山)もそういう一つでした。このレーニア山と富士山とは「姉妹山」となっています。NPO法人富士山クラブが二〇〇三年二月二三日富士山の日に調印したものです(ニュージーランド、ナウルホエ富士も同時に)。そして現在、教育関係者の間で、富士山とレーニア山をテーマにした中学・高校生向けの「総合的学習」の教科書を日米共同で開発するプロジェクトがスタートしています。単に事項解説だけでなく、山と人との関わりについても学ぶ「比較文化的な学習教材」を目指しているそうです(【富士山・レーニア山教材開発プロジェクト】)。
日本からの移民が一番多いブラジルは、地形的には富士山型の山はなさそうなのですが、ブラジル老人クラブ連合会の俳句の中に見つけることができました。その一つがジュキア富士です。
「畝(うね)に置く茶籠の上のジュキア富士」
ジュキアは、日本移民発祥の地のレジストロ市(中津川市の姉妹都市)の近くの集落です。ジュキア富士と呼ぶ山はとても小さく現地名もわからないそうですが、レジストロ市がお茶の産地でもあり、日本を懐かしむには十分な存在であり、この俳句が生まれたのでしょう。
日本が植民地支配をしていた台湾の玉山は、当時は富士山より高い山として、明治天皇により「新しい最高峰」の意味で「新高山」と名づけられました。かって三九九七mとされていた時もありました。もう三m高くなれば四〇〇〇mの大台に乗りますから、山頂で人の肩に乗って四〇〇〇mに達するという話もあったほどです。この台湾にはたくさんの「~富士」」がありますが、韓国・北朝鮮にはほとんどないのは、地形的違い以外の要因もあるのではないでしょうか。
旧満州の安東富士については、『日本風景論』を書いた志賀重昴が『眼前萬理』という本の中で「安東(アントン)富士(鴨緑江を隔てゝ望む)」という項を設けています。これが大陸部の最北の富士だが、もっと北に行ってたくさんの富士山を満州につくるんだ、という趣旨のことを書いています。彼の立場がよくわかる文章です。
望郷の念ということでは、いわゆる南方の戦地でも同様です。ラバウル富士やハンサ富士がその例です。戦友会の報告などに「戦時中日本軍の将兵が“ハンサ富士”と呼んで想いをつのらせた」などの記述があります。
外国のふるさと富士を調べていくと、いやでも日本の海外進出や、侵略、戦争の問題に思いを馳せざるを得ません。富士山が目指すべき平和の象徴――それは、世界の富士山についても同様でなければならないでしょう。
(データ収集にあたり、「山の展望と地図のフォーラム」の皆さん、特に吉野宏さんにお世話になりました。また、各種問い合わせに答えて下さった関係者にも御礼申し上げます)。
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世界のふるさと富士一覧
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(新日本出版社「今日はなんの日、富士山の日」(田代 博)より)
