「わたしと富士山」
〜富士山測候所の活用について〜



江戸川大学社会学部
 教授 土器屋 由紀子
         

富士山頂剣ヶ峯の頂上にたつ富士山測候所

富士山測候所の入口付近

富士山の火口

私にとって富士山といえばイコール「富士山測候所の活用」である。気象大学校に勤めていた1990年、植物学者の友人から降水の調査に誘われ一緒に登ったのがはじめである。最初は、一度は登ってみればよいなどと軽い気持ちであった。それから16年、降水からエアロゾル、微量気体などと仕事を増やし、気象大学校から東京農工大学、江戸川大学と職場が変わるたびにそこの学生たちを連れて富士山に登り、ほとんど毎年、富士山と係わりつづけている。ついに最近では、「NPO法人富士山測候所を活用する会」なるものを立ち上げるお手伝いをすることになってしまった。  

この間、測候所の側も大きく変わってきた。レーダー観測が中心で狭い意味での気象観測中心であったものが、90年代初めから徐々に「大気化学」(富士山の酸性雨や二酸化炭素の測定は気象業務には入っていない)の夏季集中観測を行えるようになった。レーダーが撤去され、それまで気象観測の聖域であったレーダー準備室を使って大気の連続観測もできるようになった2000年代初め、世界的にも注目されるようなデータが取れ始めていた。それが、突然、2004年10月の無人化によりすべての観測が中断される事になった。72年間の有人気象観測が終わり、電源が切られたためである。私は、このような測候所の激動の時代を近くで見続けてきた。

測候所の施設はまだ数十年は使用可能なもので、このまま取り潰されるにはあまりにももったいない。日本人の誇りであった歴史的な測候所を気象観測だけでなく、大気化学、高所医学、天文学、生態学などの分野で使える開かれた施設にしようと考える研究者が50数名集まり、2004年の夏に富士山高所科学研究会を結成した。施設の維持管理を、気象庁、国土交通省、環境省、文部科学省などの国の機関に訴えてきたが、どこからも「うちでやりましょう」という回答は得られなかった。それで、結局前述のNPOを立ち上げ受け皿になりたいとアピールすることになった次第である。

昨年(2005年)11月に設立総会を開き、最近内閣府よりNPO法人としての認証を受けた。NPO認証申請中の間も測候所の活用のための活動は行われ、本年、3月4-5日には「国際ワークショップ/シンポジウム」を開催した。世界の山岳観測について大変活発な議論が行われ盛会であり、その概要はホームページ(http://npo.fuji3776.net/)に掲載したが、ハワイのマウナロア観測所(MLO)の責任者であるRussSchnell 博士の講演は特に印象的であった。1950年代、小さい気象観測所であったMLOが二酸化炭素の測定で有名な「世界のMLO」になるまでの経緯は、富士山測候所の未来図としてまさに私たちが描いているものである。また、最近の観測のトピックスとして大陸からの汚染大気の輸送に関するショッキングなデータを見せられた。経済発展の著しい大陸上空の大気が黄砂とともに日本海、日本列島を通過してハワイへ、そしてさらに遠くカリフォルニアへと運ばれるビジュアルな様子はその真下に生活する私たちが看過できないものであった。

  もし、マウナロアのように、1950年代から富士山測候所を使った大気化学観測が行われていたら、日本上空の大気汚染の状態がはっきりした形で提示でき、東アジア域の大気汚染についても、発言力が増すのではないかと考えると残念でならない。現に、東北大学の研究者による二酸化炭素の観測が1980年〜81年に行われたが、継続できなかった。二酸化硫黄(亜硫酸ガス)やBC(すす)の測定も行われていたが現在は中断している。非常に残念な現状である。

  遅きに失した感がなくもないが、大陸の経済発展により今後排出されるであろう汚染物質を、監視し、森林や湖沼を失った欧米の轍を踏まないようにしなければならない。そのために、富士山測候所が活用できるようになり、少しでも早く大気の監視を再開し、さらに観測を充実することが急務であると考えている。

以上が私と富士山のかかわりである。美しい富士山を役に立つ「観測塔」にして、日本の大気環境を守る「砦」にしたいなどという無粋な願いが、やむにやまれぬ気持ちから出たものであると、富士を愛でた先人たちに理解されるだろうか。

 
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