霊峰富士を仰ぎ見る

富士吉田市長  萱沼 俊夫
                   

  「♪〜霊峰富士を仰ぎ見る みどり色濃き松林〜♪」、富士吉田市の公立中学校の校歌の歌いだしである。この中学校は私の母校でもある。富士吉田市内の小中学校の校歌には必ず富士山のフレーズが挿入されている。また、高冷地である富士北麓地方の農作業を始める時には、中腹の裾野に残雪で描かれる「富士農鳥(ふじのうどり)」が現れ、「そろそろ田植えの時期ですよ」と教えてくれる。このように富士吉田市では、富士山が日常的に顔を出している。

富士山は3回の噴火活動によって現在の形になった。最初に小御岳火山が、次に古富士火山が出現、そしてそれらを埋め尽くす形で現れたのが、今の富士山である。

私の家の窓から富士山はいつも顔を見せてくれている。というより、富士北麓地方では家を建てるとき、富士山が正面になるよう普請するのが普通である。周りに何も遮るものがない円錐形の山は、古くから多くの人々の憧れと、畏敬の念で崇められている。

富士山は自分を映し出す鏡のようでもある。晴れやかな気分でいると、富士山も機嫌よく鎮座しており、また、悩み事がある時には、富士山は「そんな悩みは小さい」と言葉を返してくれる。富士山が大きく見える日は、自分も大きくなったような気がする。

  大学に入学した昭和31年、私は貧乏学生だったため、学費を捻出するため、7月から9月の初めまでの約2ヶ月間、富士山の山小屋で4年間アルバイトをしていた。この当時、フィリピンや極東地域に配属されていたアメリカ軍やその軍属、将兵の子弟が富士山を目指し毎日やってきた。富士スバルラインはまだ開通しておらず、吉田口登山道の一合目手前の「馬返し」まで、軍のジープやトラックにゆられてきた彼らを、八合目の山小屋まで案内するのが私の主な仕事であった。その当時のアメリカは豊かな生活をしており、時折彼らから頂いた缶詰をお土産に持ち帰り、家族に喜ばれたのも懐かしい思い出である。八合目の山小屋までの案内が終了すると、翌日に砂走を駆け下り、次のお客を迎えに行ったものでした。このときに富士山で鍛えられたお陰で大きな大病もせず、今日を迎えており、富士山から物身両面の恩恵を頂き、また、その後の人間形成にも大いなる影響を受けた。  

  富士山は一日として同じ表情の時は無い。春夏秋冬、その表情は千差万別に変化している。春、まだ山頂に雪を頂く中、桜の花が満開となり、夏の早朝、旭日が徐々に山腹を照らし、火山礫の裾野が朱色に染められ、葛飾北斎が描いた「凱風快晴」の赤富士の姿が見られる。富士登山の幕開けの「お山開き」を境に、夕方になると山小屋にあかりが灯され、幻想的に揺らめき、まるで天空から星が舞い降りたような錯覚に陥ってしまう。秋、山腹の木々が、紅葉に染まり、錦絵の様相を呈してくる。冬、その荘厳な姿で人々を圧倒し、富士北麓に厳しい冬の到来を告げる。やがて来る春を人々は、待ち焦がれる。

  この繰り返しの中で我々地元の人々は、富士を霊峰と仰ぎ、日々暮らしている。この富士山の文化的景観を保護し、自然環境を保全し、人類共通の遺産として未来に引き継ぐ。これが我々の使命であり、人類に対する責務であると思う。私はこの愛して止まない富士山を、全地球人の財産として世界遺産登録に向け、全身全霊を傾注し取り組んでいきたい。

富士山から頂いた有形無形の心に感謝しつつ、自宅の窓からそして、市長室の窓から今日も霊峰富士を仰ぎ見る。

春−雪を頂く富士山と桜
春−農鳥(のうどり)
農鳥の出現が田植えの季節の到来を
知らせてくれる。
夏−早朝の赤富士
夏−山小屋の灯りと夜景
秋−山腹の秋
冬−厳冬の富士
 
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