「わたしと富士山」


静岡新聞社・静岡放送 社長
  松井 純
         

  数年前、採用試験の面接で、ある学生に弊社を志望した理由を尋ねたところ、「富士山の見えるところで働きたいからです」との答えが返ってきた。今なら、「それで何をやりたいのか」と聞き返すのだろうが、当時、わたしはその答えに、「きっと、静岡を愛し、定着してくれるだろう」と思わず納得していた。

  会社から富士山の見えるのは、1年のうち200日前後だが、朝、美しい富士山が見えると、それだけでうれしくなる。社員にもつい、「きょうの富士山はきれいだ」と声をかけている。静岡に住んでいると、富士山があるのは当たり前になってしまいそうだが、京都育ちのわたしは、見飽きることはないし、いつも励まされるような気がする。編集局からもよく見えるので、初冠雪や、面白い形で雲がかかった時など、カメラマンがすぐ写真を撮り、県民にも喜んでもらっている。

  弊社を訪ねてくれる県外や国外からのお客さまには、富士山がその日見えても見えなくても必ず話題にする。静岡のお茶が喜んでもらえるように、わたしたちにとって、富士山はお客さまをもてなす、貴重な財産なのである。

  古い話で恐縮だが、弊社は戦後の食料危機のとき、社員が農園を耕し、米や野菜を社員の給食にあてていたことがあった。御殿場支局所在地にあった農園は、当初雑木林で開墾を必要とした。社員の勤労奉仕で木を切り、根株を掘り起こす作業は大変だった。しかし、顔を上げるとそこに、やさしく雄大な富士山がそびえていた。「戦後の暗い気持ちと、作業の辛さを吹き飛ばしてくれた」と、当時の社員から聞いたことがある。

  明治・大正・昭和の三代にわたって、先覚ジャーナリストとして活躍した徳富蘇峰翁は日本の象徴たる富士山をこよなく愛し、数え切れないほど、この霊山を称える漢詩や和歌、文章を残している。敗戦直後には

何事も変り果てたる世の中に

           昔ながらの富士の神山

と詠み、祖国日本の復興を祈念している。日本全体がこのような気持ちであったろうと思う。

ところで、富士山世界遺産登録の市民運動を展開し、246万人の署名を集め、国会で請願が採択されたのは平成6年だった。いろいろな問題から日本政府は世界遺産(自然遺産)として推薦することを見送ったが、それ以後、本県でもゴミ問題をはじめとして、富士山の保全、環境美化に積極的に取り組んできた。今、再び「文化的景観」という新しい登山道から「世界遺産登録」の山頂を目指し上り始めたところだ。

静岡新聞・静岡放送も「富士山を世界遺産にする国民運動」に弾みをつけるため、新聞紙面や番組以外にもさまざまなイベントを繰り広げていこうと思っている。6月24日には「富士山世界遺産シンポジウム」を開き、今回目指そうとしている「文化的景観」とは何なのか、など基本的なところから議論する予定だ。また、富士山を描いた日本画、油彩・水彩70点を一堂に集めた絵画展「富士讃歌」を開催し、日本の象徴・富士山をあらためて再認識する機会を提供している。さらに弊社で展開している「エコプロジェクト」の一環として、富士山のエコツアーも実施する。

  先日、弊紙夕刊のコラム「窓辺」に浜松大健康プロデュース学部長の田中誠一さんから「ふじは日本一の山」というタイトルで原稿を戴いた。お孫さんと三島・源兵衛川の散策に行った時のことを書かれていた。JR三島駅前ではスクランブル交差点の信号が青に変わると「ふじの山」のメロディが流れる。それに合わせお孫さんも元気に歌う。そして「三島っていいね。富士山が見えて」と話したという。田中先生は続けてこう記している。

「幸いこの大型連休は富士山の見える晴れの日が多かった。そのときの孫たちのすっきりした表情は真に日本の童の顔そのものに思えてならない。感性豊かなこの時期の心のありようが、日本の心を作るような気がしてならない」
まさにそのとおりだと思う。日本人は皆、「日本の心」のDNAを持っている。それを引き出すためにも「富士山世界遺産登録」は大きな力になると確信している。

 

 
>> 戻る