母のようで父のような富士山



  
エッセイスト みなみらんぼう


         

 ぼくは宮城県の高校生だった。受験のため東京で出ることになり、特急列車に乗って上京した。何しろ1人旅である。那須岳の噴煙や、筑波山などを珍しげに眺めていたものだ。
列車が埼玉県に入ったあたりで、隣に座っていた乗客がぼくに話しかけた。「あれは富士山ですか?」と。思わず窓に乗り出し西空を見やる。薄いグレーの空には、まるで白いペンキを塗ったような、ふしぎな富士型の山が見えた。       

 なんだろうあの山は?しかし富士山に似てはいるが、富士山ではあるまい。と、ぼくは結論した。素早く頭を巡らし、地図帳を頭に描いてみる。富士山といえば静岡県。ここは埼玉県の外れであり、この先には目指す東京がある。さらには神奈川県が続いているのだ、地理に詳しくないとみて「そうですか」とあえて反論しなかった。 
 そんな事だから、受験は第一志望に落ちた(笑)。のちに地図帳を広げて確認すると、埼玉県から富士山まではわずかの距離で、よく見えるところが多いと気づいた。恥ずかしくも懐かしい若かりし日の思い出である。
 さて富士山についてはいろいろ言われていて、ぼくなど出る幕はないのだが「富士山に登らないバカ、何度も登るバカ」という通説を聞いたことがあり、僕も半ば信じている。

   そして、富士山は登って楽しむよりも、眺めて楽しむ山かもしれないなあ、と思うのである。定番の三つ峠からの富士や、河口湖や田貫湖越しの、見慣れた富士もいいが、たとえば、多摩川の源流にたどり着いたときに、予想していなかっただけに、感動が深かったのかもしれない。

 もうひとつ。久里浜からフェリーに乗って、房総半島の金谷港の向かった時のことだ。港を離れた時は富士山は見えていない。それが湾を出るころから丹沢山塊の上に、頭がでて、しだいに全貌が明らかになる。カモメが飛び交う中の「動く富士」である。これまた偶然の演出で、忘れ難い富士との出会であった。 

 今年の八月は、南アルプスと決めて、荒川3山から赤石岳に登ってきた。大変な苦労でいまだに足が痛い(笑)。 ここの2日目。千枚岳に登りついた時の、雲海の彼方に浮かぶ富士山が良かった。山頂部の左には白山岳、右手には剣ヶ峰が、鬼の角のように見える。たとえ荒々しいアルプスのなかにいても、遠くに富士山が見えると、ムードががらりと変わる。気持ちが優しくな り、また居ずまいを正したくもなる。母であって父でもあるような山、それが富士山なのだろうと思う。

                                            2008年9月12日掲載
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