山と嶽の光と影―富士山と木曽御嶽―



  

國學院大學教育開発推進機構 准教授 中山 郁
  ひとくちに「山嶽」といっても、「山」と「嶽」では意味が異なる。簡単にいえば「山」とは、単一の頂上を持つ、すっきりした山容をもつものを表し、反面、多くのピークから構成された、ごつごつした山塊を「嶽」と呼ぶ。日本には多くの山と嶽が存在するが、「山」の代表として富士山を挙げることには誰も異存はないであろう。それでは、「嶽」の代表はどの山になるのであろうか。嶽が付く著名な山は数多く存在する。例えば槍ケ嶽、八ケ嶽、谷川嶽など、人口に膾炙した嶽を数多く挙げることが出来る。しかし、「山は富士山、嶽は御嶽」ということわざに示されるように、近世から近代にかけての日本人は、木曽の御嶽を「嶽」の代表としてきた。
  美しい曲線を描きながら天に向かって聳える富士の高嶺と、溶岩質のごつごつとした峰が王冠のように連なる木曽御嶽、全く異なった山容を持つ両山であるが、大きな共通点を持っている。それは、まずこの二つの山が、ともに古来から山岳宗教の霊山とされてきたこと、さらにいえば、富士も御嶽も、近世から近代にかけて盛んになった「講中登山」の舞台として、多くの庶民に登られてきた、ということである。
  中世までの日本の山岳宗教は、修験者(山伏)とよばれる人々によって担われてきた。彼らは何十日も、ときには数年間も山々に参籠し、激しい修行に身を挺すことで山に座す神仏との合一を目指したものである。山は、厳しい戒律と行に耐えることのできる、限られた人々のみ入る事を許された聖地であったのである。しかし、近世に入ると、そうした修行のプロだけではなく、都市や農村に住む庶民が結成した「講」とよばれる信仰集団による登山が盛んにおこなわれるようになった。こうした講中登山が最も活発であったのが、富士山と木曽御嶽であったのである。富士山に登る富士講と御嶽を目指す御嶽講は、いわばプロだけに許されていた聖なる山を大衆化した代表的な存在といえる。但し、これらの講中は、決してレジャーのために登山をしていたわけではない。彼らは登山を通じて心身の清浄化を目指し、頂きに立つことにより山に座す神仏と一体化を図ろうとした。講中にとって山嶽の自然は、山の神仏が現前したものとされ、ゆえに、その尊厳を守るために、彼らは厳重極まりない精進潔斎を経て、数多くのタブーを守りつつ聖なる頂きを目指したのであった。
  ともに近世の信仰登山の世界をリードしてきた山ながら、平成の大御世において、富士山と木曽御嶽とでは、知名度も登山者数も、前者の方が圧倒的である。富士山は日本で一番高い山として、更には日本自然と文化を代表する山として、国内外から多くの人々が詰めかけ、年間30万人が山頂を目指して登ってゆくが、木曽御嶽の場合、山麓だけを巡る観光客を合わせて、ようやく30万人に届くかどうか、というところである。嶽の代表である御嶽に比べ、山の代表でたる富士山は極めて華やかな存在といえるだろう。
  しかし、御嶽が大きく勝る点がひとつある。それはゴミが落ちていない、ということである。かって、富士山麓の清掃活動を行っている登山家が、御嶽の清掃登山をおこなうために山に登ったところ、登山道にゴミが落ちていないので関心したことがあった。富士山に比べて御嶽にゴミが少ないのは、地理上の理由など、様々な要因があると考えられる。しかし、登山道上にゴミがほとんど見られない理由は簡単である。それは、富士山と違い、御嶽では現在も山岳信仰が熱く息づき、登山者の多くを講中が占めることによるものである。講の人々にとって山は御嶽の神そのものである。だれが神の体にゴミを捨てようか!実のところ富士山もかっては同じであった。しかし、御嶽講に比べて富士講は現在衰弱し、富士登山者のほとんどが、信仰とは関係のない人々で占められている。山への畏敬を持たない人々にとって、山とは都会と地続きの、単に標高の高い場所でしかない。ゆえに都会と同じ感覚で、それほど抵抗感なくゴミを捨ててしまうのもある意味で当然であろう。
  但し、こうした話をするのは、なにも富士山に対する御嶽の優位性を訴えたいがためではない。むしろ、富士という日本を代表する山の尊厳をなんとか回復できないかと思うからである。むろん、この問題は富士登山者に信仰心を持ってもらえば済むというものではないし、それは非常に難しいのが現実である。
  ただ、富士山が信仰の対象であろうとなかろうと、登山に来る人々は、本来は富士に美しさを求めこそすれ、汚れを見に来ているわけではないはずである。多くの登山者は御来光に心を奪われ、雄大な眺望に圧倒され、日の本で一番高い頂きに立つことに感動している。そうした人々の心を揺さぶる一種の「力」が富士山にはあるのである。講中の人々はそうした「力」を、山の神仏の働きかけと捉えたのではあるが、信仰心の薄い現代人も、山が持つ、人の心を揺さぶる「力」に感応するという点については替わりがない。ゆえに、もし富士山をきれいにしようとするならば、環境保護を訴えかけるとともに、いや、それ以上に、こうした人々の心を揺さぶる山の尊厳性への認識を啓発してゆく必要があろう。人は自身が大事にするものは汚さないものである。信仰心により山の尊厳が担保し難くなった現在の富士山には―そして、多くの世俗化されてしまった他の霊山にも―、山とはどのような世界なのか、なぜ大切にしなければならないのか、そして、人は山に対してどのような姿勢で登らなければならないのか、という、新たな価値観を人々に提示し、共有してもらう必要があろう。
  それに成功したとき、山の代表たる富士山は、嶽の横綱たる御嶽に負けない美しい山に回復するであろう。


2010年12月30日掲載



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