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浮世絵から見た「ふるさと富士山」

16・10 平尾富士(ひらおふじ) 平尾山 1.156m 佐久市上平井



歌川広重「木曾海道六拾九次之内 小田井」

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   高原をわたる秋風にススキの穂がゆれる日暮れ近く、「本堂造立」と染めた幟をもった勧進僧と3人連れの巡礼が行き交う。勧進僧は諸国をめぐって本堂建立のための浄財を集めた。笈(おい)を背負い「同行三人」と書かれた笠をかぶった巡礼は、心願により聖地・霊場をめぐる者。親族を亡くしたり眼病を患うと巡礼に出る者があり、赤子を懐に抱いた先頭の男も、子の母を亡くしたのだろうか。
 一面のススキの原は中山道・小田井の宿場を出た先の金井が原、この旅を住みかとする漂白の人たちが醸し出す物哀しい情景を見守るようにたたずんでいるのは平尾山である。
 平尾山は佐久平を一望に見渡す古い火山で、平尾山・白山・秋葉山より成る。戦国時代、平尾氏の平尾城が秋葉山にあり、平尾氏は武田・村上・徳川の三代に仕え戦火の中を巧にくぐりぬけたという。平尾の語源はアイヌ語の岩石の生ずる所という意味のピラオイとされる。現在、山頂には木花聞耶姫(このはなさくやひめ)を祀った富士浅間神社があり、頂上からの佐久平と浅間山の眺めが素晴らしい登山コースとして市民に親しまれている。

 信濃なる、浅間の岳に立つ煙、浅間の岳に立つ煙、遠近人(おちこちびと)の袖寒く、吹くや嵐の大井山、捨つる身なき伴の里、今ぞ憂き世を離れ坂、墨の衣の碓氷川、下す筏の板鼻や、佐野のわたりに着きにけり、佐野のわたりに着きにけり。
謡曲「鉢の木」より

 平尾山は鎌倉時代の大井庄にあり、そこの最も高い山で大井山とも呼ばれていた。佐野のわたりで佐野源左衛門と出会うまでの、修行僧の姿で遍歴する最明寺入道時頼の行程が簡潔に歌われ、浅間山、供野、離山、碓氷川、板鼻と並んで「吹くや嵐の大井山(平尾山)」が取り上げられている。当時からこの土地に欠かせない景物だったことがうかがえる。
 ふるさと富士の名称がいつ、どこで始まったのかは、今後調べるべき課題だが、富士山への敬愛から、富士とたたずまいが似ている、土地の人から親しまれている山である等々の理由により自然発生的に始まったことが推察できる。それらの条件を満たしている平尾山がかなり早い時期から平尾富士と呼ばれたことは、平尾山ではなく、平尾富士と記されている地図類が多いことからもわかる。ふるさと富士の名称が単なる愛称ではなく、山名そのものに取って代わるほどの市民権を「平尾富士」は得ているのである。

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