--- 言葉の芽 Vol.3 --- 『 声の芽』
 声が出る人は、声が出ることのしあわせをかみしめてほしい。声が出るおかげで、何を思っているのか伝えることができる。
 その伝え方には、喋る、話す、語る、ささやく、号令、説法、論じる、法話、講義、落語、歌う、朗読、音読、暗唱、演じる、と基本十五表現がある。
 中でも、語るは、すべての民族が伝える域を超え、通じ合う域に達する。
 先住民(ネイティブ)の人たちは、何千年も語り継ぐことをしてきた。千年前のおじいちゃんが体験したことのすべてを、語り継いでいる。一つの語りは、何日にも分けて語られるものから、わずか、数秒の語りの中に、何千年分の祈りがこめられているものまで、さまざまな形がある。だから伝わる。
 これもみな、声が出るおかげである。
 しかし、今の我が国は、五体満足で、親から生んでもらった多くの人たちが、語れないのである。声が出るのに、声をださない。
 携帯のメールやインターネットのメールで、声をださなくてもいいもので伝えている。
 声は、とっても不思議。例えば、朝、おはようという、声を出したとする。そのとき、おはようの音声の大小、おはようのイントネーション、おはようのハリなどから、いつもと変わらない状態なのか、元気がないのか、様子がおかしいとか、機嫌がよさそうだとか、だいたいわかるものである。
 文明の利器を利用するなとは言わない。だが、人間が本来もっている“能力の利器”を、もっと利用しなさいとぼくは言いたい。
 とても好い景色を見たとき、
 とても好い音を聞いたとき、
 とても好いにおいをかいだとき、
 とても好い味にであったとき、
 とても好い肌ざわりに触れたとき、
 そのすべてを、自分の身体が、思ったり感じたりして、身体の外へ、発する武器が“声”なのである。
 声がでるおかげで、好いから良いへ。良いから善いへの、わずかな変化を伝えることができる。
 また、相手の心をうったり、震わせたり、響かせることもできる。
 人間は、この世にいづる瞬間(とき)、オギャーッという声を出すことが初仕事。
 それは、生きぬくための一声。
 声を出すことは本当に大切。
 心からそう思っているので、ぼくは絵本を読むとき、マイクをつかわず、かならず肉声で“読あそび”している。
 そうすると、子どもたちから声がもらえる。
 「もう一回、読んでぇー」と。
 元気がもらえる一声である。ありがたや。
 
  ブックドクター・あきひろ