--- 言葉の芽 Vol.4 --- 『 機会(チャンス)の芽』
 人、ひとりの人生には、いくつかの機会(チャンス)があるのだろう。毎日とも言えるし、人生にたった一度とも言える。
 その機会をつかむ者と逃がす者がいる。しかし、よく見ると機会(チャンス)をつかんだ者が数年後、まったく違う道で生きていたりする。かと思うと、逃がした者が、実は逃がしたことが次なる機会(チャンス)となって好転し、結局は機会(チャンス)をものにしたことになる者もいる。
 子どもたちの未来を想うとき、その機会(チャンス)は限りなくあるだろう。ある子は、プロ野球の選手、ある子はトップスターなど、その通りにいく場合が本当にある。
 はたまた本人が望んでいないのに、人もうらやむ道を駈けあがっていく場合もある。
 どんな機会(チャンス)にしても、本人が自分自身によせる期待があったり、親や周りの人たちの期待が交錯する。
 機会(チャンス)は、いついかなるときにやってくるのか、だれもわからないはずである。なぜなら、どの人にも、突然やってくるからである。
 ここで誤解されやすいのは、だれそれに来週会うという予定が決定した時点では、機会(チャンス)なのか縁なのか、何なのかわからないのでご注意されたい。
 仮に、一流の人たちの言録の中に多く残されている発言で、「困難は機会(チャンス)だと思え」的なものがあるが、これも乗り越えた者のみの機会(チャンス)だと言える。
 子どもにある機会(チャンス)が来たとする。それを聞いた子どもは「いやだ」という。それを聞いた子どもの母親は、わが子をなだめ、「OK」という。この場合、機会(チャンス)をものにしたのは、子どもの母であったという機会(チャンス)を活かした、母本人である。
 では、子ども本人の機会(チャンス)はどこへいったかというと、「いやだ」といったわが子を、母が尊重したとき、未来において、子ども本人が「ぼく、やってみるよ」という瞬間がおとずれるまでだと言える。
 それが、本当の機会(チャンス)をつかむ者の姿である。
 機会(チャンス)をつかんだ者とつかまなかった者を見極めるのは、その機会(チャンス)がおとずれたあとに、愚痴がでるか、でないかでわかる。
 つかんだ者の口からは、必ずといっていいほど、礼をつくした言葉がこぼれだす。
 ぼくをふくめ、子どもたちの機会(チャンス)を奪うような大人にだけは、なりたくないものだ。
 
  ブックドクター・あきひろ