--- 言葉の芽 Vol.7 --- 『 待ちの芽』
 日々、時間に追われる生活にどっぷりとつかっている現代人。ちょっとしたことが待てない。待とうとしない。
 信号を待つ。食事に出かけてお店で席が空くのを待つ。チケットを待つ。お父さんの帰りや子どもの帰りを待つ。
 これらの"待つ"は、自分の気持ち次第でイライラしないで"待つ"ことができるはずである。
 次は、こんな場合。
 合格の報せを待つ。便りがくるのを待つ。出番を待つなどは、いまかいまかとドキドキしたり、ソワソワして"待つ"状態である。ドキドキでも、大好きな人に告白する場合などは、心臓が口から飛び出そうに感じるほどの体験をした人が多いように思う。初舞台の出番を待つ場合も同じであろう。
 ちょっと視点を変えたドキドキ感に釣りがある。釣りは、"待つ"ことの極みにある習いである。待つことなくして魚はあげられない。釣りは捕りくむまで待つ状態の連続である。例えば、釣り師がまぼろしの魚をねらいにいって、竿先のあたりを待ちつづけ、ようやくそのあたりを指先から「来た! この感触はまちがいない」と感じ、魚と格闘のすえ、水面近くに魚が姿をあらわすまで、ドキドキし、タモで捕りくむ瞬間は、捕りこぼしたくない、という心理が、ドキドキ感をピークに押し上げる。捕りくむまで、待ちの状態、あせらない状態を続けなければ、一瞬にして逃がしてしまう。
 野球なら、絶好球を"待ちつづける"場合がある。いずれにしても、待ちを楽しんだり、待ちのぞむ体をなす。
 平和な時をすごしていればこそである。
 世界では今も、一月で早く戦争が終わることを待ちつづけている人々がいる。
 これらの人々は、争いのない平和な日々がくることを"待ちこがれている"にちがいない。
 待ちこがれているといえば、日本人の多くが、永い間、景気回復を待っている。
 待ちのぞんだり、待ちこがれたりする例外にあるのが診察である。三時間待たされたあげくに、五分たらずの診察。頭にきても看てもらわなければならない状態が、待たされる状態につながる。
 自分の力ではどうしようもないことで待たされる状態には、自然災害(地震、台風など)の復旧作業もある。
 自然災害は神さまが興す。自然の力に人間は為すすべもない。
 ひょっとして神さまは、自然からもう少し"待つ"ことを学ばせようと、人間にバチをあたえるのかもしれない。
 アメリカ・インディアンは今も自然から授かった、"待つ"の訓えを親から子へ、子から孫へ語りついでいる。
 「夜があけるのを待つがごとく、苦悩は必ず待てばあける」(ソーク族)
 日本の親子もそうであってほしい。
 我が子の成長を待つ親であってほしい。
 雪の中で春がくるのをじっと待つ木のように、子どもの幸せを一念に想う木となって、待ってあげてみてはどうだろう。
 きっと子どもたちは、人生の桜の花を咲かせるにちがいない。
 
  ブックドクター・あきひろ