--- 言葉の芽 Vol.9 --- 『 喜びの芽』
 喜び、飛びはねる子どもの姿。こっちまで喜ばしくなる。親は、我が子の成長を願う。
 子どもは、そんな親の気持ちなど、分かるはずもない。子どもは、何が喜びとなるか分からないのだからしかたない。
 おじいちゃんやおばあちゃんは、孫の喜ぶ姿がみたいがために、欲しいものは何かないかといつも訊ねる。そして、買ってあげる。
 子どもは、買ってもらった、おじいちゃん、おばあちゃんに、「ありがとう」と元気に言う。その笑顔のなんとも愛しいこと。それがおじいちゃん、おばあちゃんは、たまらない。孫の喜ぶ顔をみられることが、おじいちゃん、おばあちゃんの喜びとなる。
 傍(はた)でみている親は、「もう、あまいんだから」とか、「何でもかんでも買わないでほしい。どうせ、すぐあきるんだから」などと思っている。こう思っている親の時代を終え、自らも、おじいちゃん、おばあちゃんになると、自分も、孫に対して同じことをするのである。
 喜ぶ顔がみたいがために・・・。
 昔、戦乱の世を治めようと、世界中に覇者がいた。歴史に名を残した天下人たちは、皆、国民の喜ぶ顔がみたいがためにたちあがったのである。悲しいことに、天下をとったのち、自分の喜びを欲っするがため消えていった者もいた。
 これは何も、覇者に限ったことではない。今でも、社長になったり、バッチをつけたり、優位な立場に立てた人たちが、お金、地位、名誉に目がくらめば、消えゆく道(レール)にのったも同じである。当の本人は、欲の渦にのまれているので、自分が危険な道(レール)にのっていることに気づかない。だから、遅かれ早かれ、消えていく。
 しかし、その消えていった者たちを、喜ぶ者たちが現れるのも、また事実。
 欲の渦に生息する者たちの喜びに明るさはない。
 そこへいくと、子どもたちの喜ぶ姿には、かけねなしの明るさを感じるのである。
 親は、子どもの喜ぶ姿をみて心を浄(あら)われたとき、喜びとなる。以外なことに、子どもたちは、親が喜んでいると、わけもわからず喜んでいるときがある。
 つまり、子どもはいつも、お父さんとお母さんが、何かを話していて喜び合っている姿をみると、その雰囲気を敏感に感じとって、自分の喜びとすることができるのである。
 これが家族の喜びの元である。
 親や大人は、多くの場合、子どもたちが敏感であることを忘れがちである。でも、ここでもう一度、親や大人たちの方がもっと敏感になって、子どもたちの敏感な感受性に気づいていくことは、未来の親子関係を察すれば、喜ばしいことになると思う。
 "喜びが喜びを呼び、喜びに喜びが集まる"
 
  ブックドクター・あきひろ