--- 言葉の芽 Vol.10 --- 『我慢の芽』
 小さい頃から何度"我慢しろ"と言われただろう。親から、先生から、先輩から、目上の人たちから。その度に口ではなかなか表現しにくい何か得体のしれない感情が躰の中を駆けめぐった。
 ぼくは結局、我慢ができず"我慢しろ"と言った人たちや相手に迷惑をかけてきた。そして、こっぴどく叱られることになる。叱られた代わりに、躰の中を駆けめぐっていた得体のしれないものが、どこかに行ってしまい、何とも言えないスッキリ感を手に入れた。
 そんなぼくを見ていた親父が、ある日「釣りにつき合え」といって、ボラ釣りにつれていってくれた。
 午前中は、3〜4本あがったのに、午後から、パタリとあたりがこなくなった。
 ぼくは「あ〜あ、全然あかん」といったときだった。
 親父が竿先をみつめたまま、
 「そう、おまんはバックに入っとるおにぎりでも食べて、ゆっくり休め。おれは、この喰いが悪くなってからが好きやから、もうちょっと様子をみるわ」
 「ええ!? 何で釣れやんようになってからが好きなん?」
 「ん? そやなぁ、午前中みたいに誰が竿入れても釣れるときより、誰も釣りにくくなった午後から、我慢して我慢して、おれだけが釣るんが好きなんかもしれん」
 「えーっ? 何で我慢するん?」
 「そやな、我慢できるっちゅうことは、自分に強い奴しかできんからやろのぅ。自分に弱い奴は、何やらしてもすぐあきらめるし、まして釣りは、我慢を楽しむもんやからな。自分に勝った証拠に魚がかかりよる。」
 「我慢を楽しむぅ? そんなこと親父しかできんやろ?」
 「あほか。一級の人はみんなできる。釣り師のすごい奴になると、目の前にカミナリが落ちても、竿先みていられるほど集中力と我慢があるわい」
 「へぇー、我慢するってすごいんやなぁ。おれも、ほな、おにぎり食わんとがんばるわ。」
 「おう、そうか。まぁ、おまえみたいなガキにすぐ我慢ができるとは思わんが・・・。そやのぅ、最初のうちは、我慢! 我慢! と思わんと、もうちょっとだけ様子みよか、ぐらいに思とけ。それが上手にくりかえし、くりかえし、できるようになったとき、我慢できるようになるし、我慢を楽しめるようになると思う。その稽古には釣りはもってこいや。ははは。」
 親父は笑いながら、目だけは、わかったかガキ! と言っていた。
 目で、我慢の何たるかを、我慢の下手なぼくに諭してきた。
 あの訓えは、今でもぼくの躰の中にすんでいる。その証拠に、それ以後、我慢しなければならない局面を迎えてても、あの得体のしれない感情が顕われることはない。
 なぜなら、その局面のたびに、もうちょっとだけ様子をみてみようと思うことが、クセになったから。
 
  ブックドクター・あきひろ