--- 言葉の芽 Vol.15 「親孝行の芽」
「今まで、ずっと応援してくれた、お父さんとお母さんに、少しだけ親孝行できたような気がする。」

今年、見事に深紅の優勝旗を津軽越えさせた、駒大苫小牧高校のキャプテンの言葉だ。他にも、たくさんあった。 勝った選手のインタビューの答えにも、負けたチームの中にいた注目の選手が、インタビューで答えた中にも、 「親を喜ばせてあげたい」というセリフがあった。

オリンピックでメダルを獲った選手たちの中にも、「親の喜ぶ顔を見たかったから」というセリフを言った選手がいた。 僕は心からすごいなぁと思った。
もし、自分の子どもたちに、こんなセリフを言われたら、それだけで、何て親孝行の子どもたちだろう、 と思うにちがいない。

親が子どもに、「親孝行しなさい」と言って我が子に親孝行してもらったとしても、それは本物の親孝行ではない。
三世代で住んでいたころは、幼いころから父や母が、おじいちゃん、おばあちゃんを家の中で敬ったり、 世話をする姿を見ていた。 その親の姿を見ていた少年も、いつの日にか青年となり、親となる。親となったとき、 今まで自分を育ててくれた親に、幼いころに見ていた、おじいちゃんおばあちゃんを重ね合わせ、 今度は自分が老いた親の世話をする。

僕は、幼いころに、親父(おやじ)がおじいちゃんを車に乗せて、おじいちゃんが行って見たかったところへ、 うれしそうにドライブに連れていく姿を見せてもらっていたにもかかわらず、自分が親になっても、つい最近まで、 親父やお母ん(おかん)に親孝行らしきことは、なに一つしてこなかった。

それを、たった一冊の絵本に訓えてもらった。

その絵本を読み終えたときに、「今からでも遅くないから、少しずつ、自分のできる範囲で、 照れることなくやってみてごらん」と言ってもらったような気がした。
最初は、親孝行をしてこなかったことに、「今さら何ができる」、と思っていた。でも、しばらくずっと考えていたら、 「親孝行をしたいときには、親はなし」ということわざが頭をよぎって、その瞬間、僕がこのまま親孝行をせずに 別れがきてしまったら、と思ったら恐ろしくなった。
さらに、「親孝行に気づかなかったとしたら」と思うと、もっと怖くなった。
そして、恐さと怖さを知って、恐がらず怖れず、親孝行に毛が生えたみたいなことをはじめた。

この前、親父がコーヒーを飲みたいというので、ほんの30分だったが、そこそこおいしいコーヒーの店に連れていった。 帰りの車の中で、親父がこう言った。
『おまえ、また、東京か?』
「おう。」
『ほな、また、こっちに帰ってきたら、わしを誘え。』
「ん??」
『今度は、わしがおごったる。』
と。

僕は、親孝行をはじめて、まだ一才。
ようやく、ヨチヨチ歩きをはじめたばかりだ。
みなさんの親孝行を鏡にさせていただきます。





ブックドクター・あきひろ