--- 言葉の芽 Vol.16 「備えの芽」
今年は台風の当たり年である。
僕の郷土、三重の宮川村では、多くの被害者が出た。よその地区にも、台風は深い爪あとを残した。

昔、まだ地球の気流の変化を人工衛星で予測できなかったころ、人々は台風のことを嵐と呼んでいた。
昔も今も、自然に猛威をふるわれると、人間は、ただのちっぽけな存在となるのだ。
自然が猛威をふるうことを、人々は天の災い、つまり天災と呼んでいた。

天災とは、地震、雷、火事、噴火、津波、日照り、害虫の異常発生、伝染病、水害や洪水、竜巻や暴風、土石流などがあり、我々人間が自然界の調和を乱したために起こる、地球温暖化や酸性雨、異常気象など、これからは、まだ人類史上味わったことのない災害も含め、人間の力では、全く歯の立たない“自然が起こす災い”のことを言う。
天災は、どれか一つでも起これば、すべてをうばっていく。
だが、人間は智慧をしぼり、昔からの云い伝えを守って、天災に備え、立ち向かってきたのだ。
地震がおきても、ビクともしないよう床下の木枠を工夫し、雷が鳴れば伏せ、汐の変化で津波に気づき高台へ非難し、火事には先に火をつけ(先火づけ)、炭化(はいか)して被害の広がりを防ぎ、堰(せき)を設け(ダムのこと)川の決壊に対し、日照りには即井戸を掘り、雨が降るまで一日でも長く持ちこたえられるようにしてきた。
そして、台風には、高地に住む人や低地に住む人、川沿いに住む人、海沿いに住む人などで、様々な備えが生まれた。

まだおじいちゃんが元気だったころ、こんな話をしてくれた。
その日は、雷が近くで落ちたせいか、停電して部屋に何本か、ローソクの灯がともっていた。
「おじいちゃん、カミナリって、本当に雷さんが、太鼓を雲の上で鳴らしてんの?」
と僕がいうと、
『んー、そうかもしれんし、そうでないかもしれん。ただのぅ、カミナリだけや無(の)うて、地震や台風も、雲の上に神様がおって、人間が悪いことをしてると、バチをあてなさるかもしれん、と、わしも思てる』
と、おじいちゃんが言った。
僕は、なぜかそのとき、ローソクの灯を見つめて、いろんなことを考えていたような気がする。急に黙りこんだ僕を心配したのだろう。おじいちゃんがこう言った。
『安心せぇ。神さまも、ちゃぁーんとわきまえてなさる。一年も二年も、毎日、地震、雷、台風を起 こさんっちゅうこっちゃ。あくまで、天罰じゃ。人間に、ちょっとうぬぼれてやせんか?というな!』
「ん???どういうこと?」
『えーか、よー覚えときぃ。【天災は忘れたころにやってくる】じゃ。つまりのぅ、いつも、天災が起こったら嫌なって忘れんようにしとけっちゅうこっちゃ。』
と言った。

その心を、【備えあれば憂いなし】と言う。






ブックドクター・あきひろ