--- 言葉の芽 vol.18 「情熱の芽」
情熱と聞くと、気合いの入りまくった熱い「ヤッ!」というイメージがある。でも、それは本来“熱血”という。

昔、テレビのドラマに、中村雅俊さん主演の「夕陽ヶ丘の総理大臣」という番組があった。学園ドラマで、ソーリこと中村雅俊さんは、 英語を教える、熱血教師だった。
僕は、毎週、その熱さが好きで見ていた。
泣き方も熱い。笑い方も熱い。

情熱と熱血の異なる点は、前者は情け深い出来事によって熱くなってしまう感情型で、後者は、普段から熱い血潮が流れているので、 すべての出来事にすぐ熱くなってしまう意気込み型に分けられる点である。
平成時代では、めったにお目にかかれない。

なぜ、少なくなっていったのだろう。

1つには、情け心をもって社会人をしていても、すべては、結果が悪ければ、なんにもならないと、世の中を冷めた目で見る人たちが 増えたからだと思う。
そんな大人たちが増えた証拠に、冷めた目で世の中を見ている子どもたちが増えた。
いつの時代も、子どもたちは、大人を映し鏡にしているからだ。

日本中をまわって、元気な子どもは、まだまだ、だくさんいる。しかし、情け心を感じさせる子、熱い子、情け深く熱い子で元気が いい子となると、これは絶滅に近い数ではないかとつくづく思う。

情熱とは、まず、幼いころから、情けの何たるかを家族を通じて肌で感じないと授からない。たとえば、50年前の家々は、 皆、3世代で暮らしていた。となると、きのうまで、一緒にご飯を食べていた、お爺ちゃんが亡くなったり、お婆ちゃんが亡くなったりした。 それを家族全員が、我が家で看とった。今は、ほとんどが病院で看とるのが常だ。住みなれた家で、家族の最年長者が我が家の畳みの上で息を 引き取る姿を、家族全員で看とるとき、幼い子どもの感受性に、情けの何たるかを肌で感じさせ授けてこれた。めったに嘆かない親父が泪し、 母が、おじさんが、おばさんが、みな泪を流し、その雰囲気が克明に肌に擦り込まれ、目に焼きつき、耳にこびりつき、そのすべてが、 情けの種となった。
身内の死からは、すべての情けを享けた。
情けの種を心に宿した子どもは、やがてその情けの種から芽をだし、成人となるときには、情けの樹がちゃんと立っている。
情けの樹がのびればのびるほど、情けの深さが増す。情け深さが増せば、普通の人が聞けば、何てことない話でも、情け深い人にとっては、 その気持ちをくむ量がケタ違いに多いため、その人の気持ちや身になって考えられる量も多いので、泣けてきたり、怒りがこみあげてきたり、 いっしょに苦しみを分かち合ったり、いっしょに辛さを堪えてあげたりできる“熱さ”の持ち主となる。

今、少年犯罪が激増しているが、これに歯止めをかけるには、各家庭、各学校、各地区、各県、各ポジションに、たった1人、 情熱を宿した人に決定権を持たせ、ポストについてもらうしかない。そして、我々大人は、未来のために、今の子どもたちに、 少しでもいいから情熱をもって接しつづけていこうよ。





ブックドクター・あきひろ