--- 言葉の芽 vol.19 「希望の芽」
2005年の幕が開けた。新しい年を迎えるというのは、皆、いろんな希望に満ちている。
そんなことを言えるのは、ポジティブな人たちだけだ、と声が聞こえてきそうだ。
でも、よーく考えてほしい。そう思う人もこの世に出でてきたとき、 家族の希望として家族みんなの笑顔を引きだしたのだ。
希望の種は、すべての人の心の中に、平等に配られている。あとは、いつ種から芽を息吹かせるか、である。

だれが?

あなた自身がである。

一生、種のまま終えるとしても、一生、希望の樹を育てつづけ、終えるとしても、自分自身である。

では、どうすれば、種から芽が息吹くのであろう。
簡単である。適度な水を与えればいい。水、つまり適度な栄養のこと。心の場合は、自分が自分に希望(みず)を与えつづけること、つまり、希望(きぼう)を持ちつづけること。
これが人間の場合、簡単のようでなかなかできない。しかし、年明けの正月だけは、その希望が、どの家でもうかがえる。

家族で初詣でにいく。これは「今年こそ、よい年になりますように!」と希望する行事であろう(笑) また、母屋に家族や親戚が集まったときなど、赤ちゃんを授かった一族などがいると、「おまえが赤ちゃんだったころは、おじいちゃんがトイレにいくのも我慢して、ずっとだいていた」とか、大人が喋ってばかりいると、子ども同士で、すごろくや絵を画いたりする。そして、その絵がすごく上手だとすると、親戚のおじさんとかが、その絵を手に取りながら「将来は、すごい絵画きになりそうだなぁ」(笑)、とおきまりのセリフをいうのである。
この例でも、一族の子どもたちの将来に希望を見るのである。もともと日本人は、節目節目で、子どもたちの将来や、その年の希望を見失わないように、工夫してきた、実に、優れた民族だったのである。

希望を失ったら人は生きていけない。そのことを長い歴史で学んだために、この国には昔から、節句を、事あるごとに慣(なら)わしてきたのだ。
節分、ひな祭り(桃の節句)、子どもの日など、節目、節目にはいつも希望を見失わないよう、また、希望を自分が自分で、それぞれの希望を持ちつづけられるように工夫して、生活の中に巧に取り入れてきたのだ。

僕が子どものころ、おじいちゃんはこう言ってくれた。
「おまえが大きくなったとき、何でもないことで大切な希望を失うことがあるかもしれん。また、あるときは、何でもないことの中に、希望の光を見つけることができるじゃろう。そうやって希望は、希(まれ)なことが起きることの中に希望があったり、望みすぎて、希望を神様にかくされたりするもんじゃ。じゃが、希望は決してなくなりはせん。何でかと言うとの、神さま自身が希望を見つけ、それを形にしなさったのが人間(ひと)だからじゃ」と。

僕の希望は、子どもたちに絵本を読ませてもらったとき、子どもたちから笑顔をプレゼントしてもらう度(たび)ごとに在(あ)る。
この国の将来は決して暗くないと……。





ブックドクター・あきひろ