--- 言葉の芽 vol.20 「適当の芽」
僕は、適当という言葉をしょっちゅう使う。
「それ、適当にしといてぇー」とか、何か人から頼まれごとをして、その人から「頼むよぉ、あきちゃん」とか言われたとき、「適当に待っとって下さい」とか、とにかく、よく使う。ということは、僕はこの言葉が好きなんだろうと思う。

適当という意味は、どの辞書を引いても、あてはまるという言葉やいいかげんという言葉を使って表現している。
適当という言葉をしょっちゅう使う僕は、あてはめたり、いいかげんな状態が相当好きということになる。当たっている(笑)。

今の子どもたちは、適当で生きさせてもらえないから、ちょっとしたことでも、すぐ心が詰まってしまい、内にこもってしまったり、張りつめたり、弾けたり、切れたり、流れが悪くなったりするのだろう。例えるなら、ちょうど、50ピースのパズルをイメージするといいだろう。それもウルトラマンが空を飛んでいるやつ。パズルの裏側には1番から50番まで連番がふってある。形はもちろん1つとして同じ形はない。パズルだから。

でも、今の親たちは、その50ピースのパズルを我が子にさせるとき、1番から50番まで、それも左から順に当てはめさそうとしているのだろう。

一太郎君は、「この形、星みたいな形していてこれから当てはめよう」と思っても、我が子の手を裏返し、「これ、29番じゃない!1番からちゃんと探して当てはめなさい。そんないいかげんなことでどうするの!?」といって、一太郎君はパズルでさえ自由に、手に握ることさえさせてもらえない。二太郎君は、このアメーバーのような形と同じものは、どこにはまるのかなぁと思って探していると、横から「それは、ここにあるじゃない、何ぐずぐずしてるの?こんな特徴あるものは、すぐ分かるでしょ」と指を示されてしまう。ニ太郎君は、探すのが楽しいのに。すぐ「ここよ」と親に答えを言われ、自由に探させてもらえない。

三太郎君と四太郎君は、半分づつやろうぜと思っていると、それぞれのお母さんが、パズルを1つずつ数字が見えるように裏返されてしまった。三太郎君と四太郎君は、半分に分けた、1つずつをよく見て、その1つのピースに写る赤い線は、ウルトラマンの体のどこの部分の線か、2人でワイワイガヤガヤ話しながら当てはめたいのに、全部裏返され、数字だけ見てても、何も話がはずまない。

五太郎君から九太郎君は「私のマネをしなさい!」と言われ、その人と同じ形、同じ位置を指図される。自由に工夫させてもらえない。
十太郎君は、スッスッと直感で置いていく。あっという間にあと1つ。ところがどうしたわけか、最後の1つをなかなか当てはめようとしない。横から「何をしているの!?さっさとはめなさい」と言って、十太郎君の手から最後のピースを奪ってはめてしまう。十太郎君は最後の最後を十分味わうことを楽しみにしていたのに、自由にさせてもらえず泣くばかり。

いいですか?適当という字は、適切に当てると書くのです

いつの時代も、大人たちは子どもたちの自由を奪っていることに気がつかない。
子どもたちよ!そんな大人たちとは、適当につきあってあげてください。
大人は、改めて、世の中の常識と適当に付き合いなさい。






ブックドクター・あきひろ