--- 言葉の芽 vol.21 「「疑」の芽」
「疑」は、訓読みで、疑う、疑わしいなどと信用に欠けるイメージがある。でも、疑いが晴れれば、信用度が少しずつ増していく。
何に対して?
人に対して。
疑問に思うことの多くが人に対してばかり向けられるようになってきたのは、バブル経済が弾けて不況の波が襲ってからだろう。
これは日々ニュースから流れる、大企業の不祥事・政治家・警察官・裁判官・弁護士・大学教授・先生・医者・医療ミス・未成年犯罪の凶悪化・詐欺事件の多様化などなど、昔は、この職に就けば社会的地位、信用を得られるとされた人間の、欲による不祥事が相次ぎ、何の罪もない人が命を奪われ、人が人を疑うことから始めなければ何も信用できるものがない、と感じるようになったためであろう。

今、保育園・幼稚園・小学校・中学校・高校のPTAは、校内に入るすべての人間をどうチェックしていくか、週に何度も夜遅くまで会議を開いて、どうやって児童・生徒の安全を確保し、安心して学べる学校づくりができるか、ご父兄の方々が各分野の専門家の先生に知恵をかりながら躍起になっている。

親の皆さんや、学校の先生方は言う。
「知らない大人に、声をかけられても、決してふりかえってはならない」と。

僕は、日本中の子どもたちに絵本を読ませてもらっているので、日本中に出かけることになり、知らない土地での初めておじゃまする保育園・幼稚園・学校などが会場になるため、当然、目的地近くで、土地の人たちに声をかけて、「この辺に、○○幼稚園があると思うのですが教えていただけませんか?」と訊くことになる。そのとき、パッとこちらを見てくれる方は、まだましな方で、見向きもしてもらえないことが多くなり、最近は、うーんと手前のコンビニで場所を聞いて、目的地まで行かなければならなくなった。
何と悲しいことだろう。

今の子どもたちは、こんな人が人を疑う世の中での少年期を向かえ、将来どんな大人になってゆくのだろう。その頃は、もっと人を信用しないのだろうか。それは、あまりにも、辛すぎる。
この少年期に、せめて、親だけは信用できると思わせてあげることはできないだろうか。
いや、できると思う。家の中で、語り合う時間をできるだけ増やせば!!

幼児虐待の届けが年々増えてしまい、不幸にもその子たちは、血がつながった親を信用できなくなってしまった昨今。

でも、僕は、多くの親のみなさんが本気で我が子と活きた時間をとることで、我が子が大人のやっていることの中で疑っていることや世の中の疑わしいと感じることなどがあれば、真正面で聞き、大人がどうしてそうせざるを得ないのか、また、社会の構造や仕組み、働きなどを正直に話しておいてあげてほしいと思っている。

なぜなら、子どもたちは、自分たちのすすむ世の中はどんな社会なんだろう?とか、自分はどんな大人になるんだろう?とか、いつも思っていて、その応えをもっていないことの不安が幼い心の中に、「疑」の芽をもってしまわせてしまうから。







ブックドクター・あきひろ