--- 言葉の芽 vol.25 「 兼ね合いの芽 」

ここら辺の兼ね合いが結構難しいね!?ということが人生には度々起こる。起こるということは、この兼ね合いを制する処世術を身につけられれば言うことはないだろう。

兼ねるとは、一つのもので二つ以上の働きや役目をし、そして、合うが付いているのだから、つり合いのとれるところや、折り合いのとれるところを見つけなければならない 。

この兼ね合いが上手くいくと、兼用や兼業という言葉どおりになる。兼業で例を挙げるなら、「あの先生は、小学校に勤めながら、土日にボランティアで、不登校でなかなか勉強ができない子どもたちに、地区など関係なく一生懸命教えている。その兼業のため、体を休めている暇がないほど忙しい人だ」といえば、解かってもらえると思う。

だが、これは兼ね合いが上手くいった例である。問題は上手くいかないときである。

上手くいっていないときほど、兼ね合いを見つけられる力がついているかの真価が自らに問われるのだ。

次に、上手く兼ね合いがとれないタイプの人で、一番わかりやすい例を挙げる。それは、好き嫌いで普段から生きている人だ。このタイプの人は、兼ね合おうとするヤキモキする自分に耐えかねて、すぐに嫌いな人を避け、好きな人につく姿勢をとる。これでは人とのステキな出会いの輪が狭まってしまう。仮に好きな人ばかりについたとしても、いずれ自分が好きな人同士で旅行などに出かけ、旅先ではつきもののハプニングが起こったときに、意見が分かれ、そのとき好きな人同士の旅の仲間の中から、より好きな人に付くという自分が現れる。そうやって、どんどん自分の立場や出逢いを狭めてしまうのである。

こんなとき、このタイプの人が、「気の合う者同士でここまで旅をしてきたんじゃないかぁ。もう一度、根っこからどこから意見が分かれはじめたのか、ここの温泉にでもゆっくりつかりながら、みんなでイイ案を探してみるっていうのはどうだぁ!?」と言えるだけの“兼ね合い力”を身につけていたとしたらどうだろう。出逢いを狭まらせることが避けられ、さらなる、好きな者同士の旅の良き思い出を重ねられるような気になるはずである。

つまり、兼ね合いが上手くなるためには、双方に思いやりをもって接する姿勢で臨もうとする意識が必要なのである。それが“兼ね合いの芽”となるのだ。

そういやぁ、おじいちゃんが、いつだったか、親父(おやじ)とお母(おか)ん(ん)がテレビを観て、ちょっとした口ゲンカになったとき、こう言うてたなぁ。

「おまんら、ついさっきまで、仲良う観てたのに、もうケンカか。
ええのぅ。
ワシはケンカして兼ね合おうにも、合わそうとする相手がおらんから、うらやましいわい。」

つまり、おじいちゃんは、兼ね合わそうと思っても、合わす相手がいなけりゃ、兼ね合いは成り立たないという話しをすることによって、夫婦ゲンカをやめさせ、兼ね合いの弱点を説き、時には、兼ね合わない話をすることが、その場にいるみんなを上手く、兼ね合わせることになる、と訓えてくれたのだと思う。

 







ブックドクター・あきひろ