--- 言葉の芽 vol.26 「 ゆめの芽 」

ゆめには、大きく分けて二つの解釈がある。

1つ目は、眠っているときに見るゆめである。
3才の子でも、夜中にふと恐いゆめを見て目が覚める、ということがある、あのゆめである。このゆめは、漢字だと「夢」と書く。
夢は眠りが浅いときに見る、とよく言われる。
疲れているときは、ぐっすり寝てしまうので夢を見られないが、だんだん眠りが浅くなってくると、こんな夢なんか見たくないと思っていても、夢のほうが巧みな演出で、自覚のないまま出てきたり、自覚のないまま、もう少しだけこの夢を見ていたいと思っても、目が覚めてしまえば、多くの場合、消えてしまうのだ。まぁ、中には、よい夢の続きをみられるという人が、ときたまいるが、多くの方の場合が、夢の続きを見られない。

2つ目は、起きていても見たり、描いたりすることのできる、ゆめである。
自分の将来のゆめを描いたり、持ったりできることのある、あのゆめである。
つまり、空想による将来の希望みたいなものである。この夢は、漢字だと「梦」と書く。
梦は、自由自在に足したり、減らしたりできるし、何度も同じ場面を見ることができる。
だが、思い描き方が下手だと、現実離れしすぎたものになり、はかなくて当てにならないものになってしまうのだ。

夢にしても、梦にしても、どちらも、夕という字が入っている。この夕は、夕方の夕だが、夜の入り口という意味があり、昼間でもない、夜というには早すぎるといった具合の、間(はざま)を表す状態を夕と書いて、昔は、夜と区別した。その間(はざま)的感覚が、眠りが深いときは、真っ暗だが、目を開けて光が脳に入るには早すぎるといった具合の浅いときに、夢を見たり、集中して物事にあたっている時はいいのだが、何かの加減で、急に気が抜けて、目をとじて寝ているわけでもないが、限りなくそれに近い間(はざま)の状態のとき、梦にゆけてしまうのだろう。

夢を見るのも、梦を見るのも、人間だけが見れるありがたいものである。だが、面白いことに、人間一人一人、みな、夢や梦の内容が全て違うのだ。そして、ゆめを描き続ける者がいるかと思えば、ゆめを持ち続ける者がいたり、はたまた、ゆめをかな希えたり、ゆめをつかむ者がいたりする。

ゆめをかな希えたり、ゆめをつかむ者になるためには、ゆめの芽に、養分を与え続け、実が成るまで、努めなければならない。
この努めるという“努”という字を、2つ続けて並べると、努努(ゆめゆめ)と読む、ゆめという意味が含まれている。このゆめは、必ずとか、決して、絶対にという意味があり、転じて、「努(ゆめ)疑うな」などのように、決してゆめをつかむまであきらめたりするもんか!という意志が織り込まれている。
つまり、想ったことを形にするために、必ず、まずやってみるということ。それが養分である。その養分の繰り返しに努めることが、必ず、実を成らせ、自ら実(ゆめ)をつかみ、味わえるのである。

 







ブックドクター・あきひろ