--- 言葉の芽 vol.28 「 不足の芽 」

60年前は、戦後の真っ只中。その頃は、何から何まで、不足の世の中だった。人が人のものを奪い、人が人に物を奪われるのが、毎日の常だった。これは、本当の物の不足からくる人間の業である。

それから60年後の今、世の中は、当時の生活からすれば、何から何まで物であふれ、まだ使える物でも捨ててしまうほど、物が豊富になった。おまけに安くなった。ほとんどの物が100円で売られる時代である。物を大事に使い、少しでも長く使えるように、丁寧に扱う時代から、壊れたらすぐ買えばいい、新しい型が出ればすぐ取り替えたらいい、という時代になった。
つまり、満足いく物がお金さえ払えば手に入る時代に、この日本もなったということ。

だが、ここに落とし穴がある。

どういうことかというと、皆が次なる満足を求め、それが手に入らないとそこで初めて不足を感じるのだ。これは、本物の満足を感じているわけではない。
これが欲しいと思うものが手に入らない場合の、すべては、不足とは言わない。

何と言うか?

それは、“不満足”という。

人間の欲には、大昔からキリがないもの。
例えば、携帯電話1つかえるにしても、早く欲しい。型は同じでも、自分の気に入った色がなく、別の色なら、小一時間ほどで渡せますと言われると、別にこのお店で買わなくたって、携帯ショップは、いくらでもあるからと言うので、プイッと怒って、そそくさと帰ってしまう。何から何まで、自分の描いた通りにいかなければ気がすまないという欲の塊みたいな人は、安く、早く、機能もたくさんついていて、自分の希望する色があって、月々の値段も納得のいく価格で、さらに、サービスは、1つでも多くを求め、売店で、1つでも意にそぐわなければ、店員さんにかみつかんばかりで怒っている。
なんと人間として、みっともない姿なことか。

仏教の世界では、欲望をいさめるありがたい言葉がある。
「足る(たる)を知る」
である。
この訓えは、物がない時代は、物がない時代なりに、その日、お水1杯いただけるだけで、私は幸せであり、物が足りすぎるほど足りている時代は、その時代なりに、おにぎり2個に、缶コーヒーさえあれば、和洋そろって、申し分ないですなぁと心の底から、その日ありつけた全ての物に感謝しながら、よく味わいなさい、というものである。

この不足の芽を、子どものうちに心の養生として備えたならば、将来、かなり貧しい暮らしとなっても、笑い声の絶えない家庭で、幸せに暮せる力になるだろう。
だが、大人になるまでに、満足させ続け、たまに、希望通りにいかなければ、不満足の芽ばかりを心に貯金して、社会人となり、親となったとき、その人の心の土壌には、「これで十分幸せだ」という肥やしが入ってはおらぬため、欲の世界から一生抜け出せず、かなりの生き地獄を味わうこととなるだろう。

人はいつの時代も満足を求めるのではなく、わずかな物の中に、これで十分だと思える心の芽を求める方が、早く幸せをつかむものである。 





ブックドクター・あきひろ