--- 言葉の芽 vol.30 「 感賞の芽 」

赤ちゃんが、ハイハイしたり、ハイハイしているところから、机のヘリにつかまりフラフラしながら、つかまり立ちをすると、「うわぁー、すごいすごい。立った立ったぁー」と感心して思わずほめる。これを『感賞』という。

ちなみに、よく子育ての講演会で、「我が子を叱りすぎたりしていませんか?叱るより、誉めてあげましょう、励ましてあげましょう」という言葉に敏感になりすぎて、別にそこで無理して誉めなくてもいいのになぁと感じるような誉め方を、観賞という。

ついでに言うと、『かんしょう』には、他人や我が子に必要以上に世話をやいてしまう『干渉』や、我が子に水泳やサッカーをさせたり、ピアノや習字を習わせることを奨めて、よい結果が出たとき誉めたたえる『勧奨』や、目も当てられないひどいニュースで、家族の人の気持ちを察したり、同じ親として、心の傷みを感じたりする、『感傷』などもある。

他には、完勝、冠省、冠省、管掌、緩衝、観象、観照、観賞、鑑賞、奸商、環礁、簡捷、癇症、などがある。ちなみに最後の『癇症』は、僕がガキの頃を思いだす。親戚のおじちゃん、おばちゃん、近所のおばちゃんたちから、「こんな癇の強い子、知らんわぁ」とか「この子は癇癪もちやから」とか、しょっちゅう言われた。

だが、誰にでも、癇が強かったわけではない。
子ども心なりに、僕のことを思ってくれてる人には、ビワを持っていったり、イチジクを届けたり、肩をもんであげた。……わずかだけど。

それに、宮大工のおじいちゃんには、一度も癇症になったことはない。
いつ遊びにいっても、「おぅ、よー来た、よー来た」と言って、笑顔で迎えてくれた。

いつだったか、小学校1年生ぐらいかなぁ…、
僕が大事にしていた、赤のフェアレディーZのミニカーをスーッとすべらせていた。そのうち、フェアレディーZはスポーツカーだからと思って、勢いよくすべらせて、襖(ふすま)にぶつけだした。
何回目かのときだった。スーッとすべらせてフェアレディーZの行方を見ていたら、襖が開いて、トイレからかえって来た親父の右足の裏にふまれ、ペチャンコになった。あっという間の出来事だった。僕は、あわてて、フェアレディーZの元へ駆け寄り、手に取ると、タイヤが、八の字に広がって、走らせようとしてすべらせても、すぐにつかえて、コロンコロンとミニカーごと転がってしまう。

僕は、火がついたように親父に向かって「もとどおり、修(なお)せぇー。親父が壊したぁー」と言って、親父の太ももあたりをバシバシたたいていた。そしたら、おじいちゃんが、「あきっ、あきっ、こらえたってくれ。お前も見とったやろ。おとんがわざとやったんやないところを」と言った。
たしかに、そうだった。そうだけどと思って、フェアレディーZの八の字に広がったタイヤをいじっていたら、おじいちゃんが僕の肩に手をおいて、「よー、こらえたのぅ。あきっ、今、こらえた自分を、よー覚えとけ。それができる奴が、ええ男になるからのぅ。立派、立派。おじいちゃんでよければ修(なお)させてほしいんじゃがのぅ」と言った。
そのあと僕は、すぐミニカーを渡し、おじいちゃんに修(なお)してもらった。

でもあのとき、本当になおしてもらったのは、フェアレディーZをすべらせて喜んでいたガキの僕の心だったのだろう。
きっと、おじいちゃんは、僕の心の傷みを感傷してくれて、感賞の言葉で僕の心を治してくれたに違いない。
家族の何の飾り気もない、無償の誉め言葉こそ、我が子の心に安らぎをあたえる『感賞』の芽というのさ。





ブックドクター・あきひろ