--- 言葉の芽 vol.32 「 無事の芽 」

何も無い事と書いて、無事と読み、意味を引くと、――特記すべき過失・事故・支障も無く、事がスムーズに行われる(新明解国語辞書<三省堂>)――となっている。他には、――失敗なく勤め上げる。平和なこと。何事もなく終了。病気や怪我をせず健康である。もし、怪我や事故にあっても命にかかわるような状態ではないこと。などなど――、となっている。
つまり、何も無い事を良しとする解釈をしている。

だが、自分の人生を見つめたときはどうだろう。はたと、自分には、何も無い、まだ何もしてい無い、何もする事が無いなどとなって不安や悩みのタネになるのではないだろうか。それもそのはずである。
なぜなら、今の日本人の多くは、生まれたときには、物が豊富にあるのだから、それがちょっと少なくなっただけでも、このままもし減り続けたとしたら、このまま物が無くなったら、どうすればいいのだろう、と不安感がつのるのである。

昔は、物が無いのが当たり前の庶民ばかり。そんな庶民が願うのは、裕福になるためには命あってのものダネと思っても無理はない。
お父さんが家を出るとき、お母さんが火打ち石で、願をかけて送り出し、ただいまと帰るまで、事故や怪我、思わぬハプニングにあわないようにと、本当に心の底から、毎日毎日、無事を祈ったことだろう。

今もそれは変わらない。子どもが朝、学校へ、元気に「いってきまーす」と家の玄関を出て行き、「ただいまぁ」と帰って来るまでは、変な人に声をかけられたり、つけられたりしてないだろうか、と心配はつきないことだろう。
子どもは子どもで、お父さんやお母さんが夫婦ゲンカなどしないように、また、病気にならないように、車で事故などしないように、いつも、親の無事を祈っては心配し、心配しては無事を祈っている。
その無事の祈り合いや、願い合い、思い合いが、子どもの心に“無事の芽”を宿すのだ。

僕の心に無事を祈る芽をもらったのは、間違いなく、子どもの頃から親や、親戚のおじちゃん、おばちゃんが同じ一つのセリフを口をそろえたように言ってくれたおかげだと思っている。
そのセリフとは、
「無事が何より」
だ。

なぜ僕には、一族中の人間がこのセリフを言ったかを思えば、たぶん僕が全然、じっとしていない子どもだったからだと思う。
元気に家を出かける子どもなら、それはそれで安心させられたと思うのだが、僕の場合は、今だに、どんな人にも元気すぎるイメージを与えてしまうことが、家を出るイメージにならず、家を飛び出していくイメージになり、親や親戚は、僕が玄関を飛び出していく元気良さに、横から来た車に気づかず、車にいつ撥ねられるかとヒヤヒヤしていたに違いない。
あのころをよく思い出すと、僕自身は、車に轢かれないようにちゃんと注意をして、あちこち遊び回っていたが、日が沈み、「たっだいまぁー、いま帰ったどぉー」と飛びこむように家に帰ると、おかんが僕の顔を台所から覗きこむように見て、ほっとしていたように思う。

あらためて僕は、親も、子どもも、友達も、兄弟も、皆さんも、
「無事が何より」
と、心をこめて願わせていただきたい。



ブックドクター・あきひろ