--- 言葉の芽 vol.33 「 甘えの芽 」

親が我が子に甘くなったとか、最近の親は子どもに甘すぎるからとかを一方でたくさん耳にしたかと思えば、もう一方では、いやいや、この幼少期に親にたっぷり甘えさせてあげることが、早く親離れをしだすとか、僕に言わせれば、親が子に甘くなったりしようが子が親に甘えようが、その家の親子関係がうまくいっていればそれで良いと思っている。

本来、親が子に甘くなるのは、心情において、かわいいからである。
だから、昔から親は我が子には、甘くて当然だろう。だが、武家社会から伝わる精神ぽいものを今だに持っているお父さんやお母さん、監督、コーチなどは、父と息子、父と娘、母と息子、母と娘の関係でも、よその子と同じように、育てたり導こうと、時に厳しく、時に見守るために、自らの甘えさえも律する姿勢で臨んでいる。まあ、年々減ってはいるが。

親が子に甘くなるのは当然として、話を進めていくと、昔と今とでは、甘さの中の何かが異なるのかということになるだろうがそれは、いくつもあって、そして絡み合っているもの。例えば、一つあげるなら、昔のように国民全員が時間におわれず、夕日が沈んだら家族全員で夕食を囲み、ちょっとした事を親が聞ける場がなくなってしまって、たまに我が子に聞くにしても、お伺いを立てるように聞かなければ、なかなか、口をきいてくれなくなったこと。つまり、毎日、少しずつ聞けた時間を失ってしまって、親が我が子に甘えた聞き方をしてでも、何とか我が子が何を考え、何を思い、何をどうしたいのか、その時いっぺんに聞きだそうとする親が増えてしまったということ。

あと5つほど言いたいが、僕のテンションが本当にさがるので、ここでやめておく。
なぜならどの親も、一番いいのは、どれだけ我が子に甘くなろうが、我が子がだれにでも、認められる一人前になってもらえればいいはずだから。

だが、これだけ科学が進歩しても、そんな息子や娘になるためのマニュアルや育児書は出ていない。
僕は、もし、そんなマニュアルや育児書が出版されたとしても買いも読みもしないと思う。
どうしてかっていうと、親子関係での甘えが許されるのは、ことわざ通り、「老いたれば子に従え」と思っているから。どういうことかと言えば、僕が小学2年生のとき、おじいちゃんにBの鉛筆を買ってもらうときの話が今も耳に残っているから。

よろず屋さんの会計で、おじいちゃんがお金を払うときに、たった20円が足りなかった。そこで僕はサイフから20円を足そうとした。そしたら、おじいちゃんがこう言った。

「あきっ、わしが買ってやりたいんじゃ。
その20円をおまえに出されることは、おじいちゃんが孫のおまえに甘えたことになる。
わしがもし甘えてもええんなら『老いたれば子に従え』って言う通り、おまえの親父からや。
親はなぁ、いつまでたっても、子に甘えられて親や。
もし、親が子に甘えるなら、働けんようになるか、体が動かんようになって、ことわざ通り老いた時や。
それでも、我が子に対して心の中で『すまんのぅ。本当はもっと親をしてやりたかったけど、どうにも体が言うことをきいてくれん。本当にすまん。息子は息子の生活があるのに。ありがたいのう。』と思ってないといかん。
この気持ちを忘れると、みんなの和が不思議と乱れるんじゃ。
それやのに孫のおまえから20円を受け取ったら命の順番がぐちゃぐちゃになってしまうがな。
ええかぁ、あきっ、おまえが親父になっても、甘えてええんは、親の親父だけにしときぃ」

「うん」
と僕は元気に言っていた。
このとき、おじいちゃんは、『親は子にスキをつかれ甘えられてなんぼ』って言ってくれていたのだと思う。決して“親のほうから甘えていいんだよ”って言ってあげるものでもないし、態度を見せるものでもないだろう。
子が親に甘えることはあっても、親が子に甘えることは、親なら老いるまで我慢してあげなきゃ。

だから、僕が子どもに甘えることは、まだまだないと思う。でも子どもの方が僕に甘えてくれる芽はスキだらけのお陰で、すくすく育ってくれているようだ。



ブックドクター・あきひろ